ペーパーエフェクト ─ナノくん編─

2/37
前へ
/37ページ
次へ
「失礼しました。 それ以上は仰らなくても結構ですよ」 「すいません。 あ、でも俺はもうへーきです」 「それは、、、何よりでした」 瀬髙(せたか)はかけている眼鏡のフレーム位置を二本の指先で直し、渡すはずだった契約書の一部を封筒から取り出した。 二人に紹介した物件は法人契約限定だったところ、同性婚である彼ら二人の為に瀬髙が本社を説き伏せて無理矢理個人契約に持ち込んだ経緯がある。 が、入居直前になっての契約取り消しとなると、建物を所有するオーナーに対して賃料の二倍にあたる違約金が発生し、それは契約者と彼らに仲介したシティホームが折半して負担することとなる。 もちろん売上損を出した営業担当の瀬髙は本社に顛末書を提出しなければならない。 そんなことはいいとして ── 「先日部屋の契約をしたまでは順調だったんだ。 だけどなんか、、、その。 いざパートナーシップの申請ってなった段階で俺が知らなかった相手の事情とかがいろいろとわかって、、、。 あ、でも俺としては別に別れたくて別れたわけじゃなくて」 茄乃(なの)は申し訳無さそうに顔を下に向け、しかし口ばかりは不満気に尖らせて言った。 くしゃくしゃになった申請書を今も握り続けている『契約者のかたわれ』の指先を瀬髙はチラリと見、視線を逸らした。 それは哀れみや同情からではなく、先週初めて彼に会った時と同じように、節の無い指、つるりとした彼の手そのものに目を留めると、ついシャツに隠れている手首から胴体までのしなやかさを想像し、加えて発する言葉に似合わない賢そうな顔と、ちまちまとした仕草、声の湿り具合に至るまで自分のタイプそのものの現れに胸の奥を鼓動させられてしまうからだ。 しかし茄乃は客である。 「入居前で良かったですね。 引っ越し後だと手続きはもっと煩雑になっていましたから」 不埒な想像を払拭すべく瀬髙は父親のような、努めて色を含まない目で微笑んだ。
/37ページ

最初のコメントを投稿しよう!

97人が本棚に入れています
本棚に追加