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「手続きは以上です」
茄乃は渡された解約書類と精算後の金を受け取り、肩をすくめてペコリと頭を下げた。
「今後ともお部屋探しの際には、是非シティホームをよろしくお願いします」
見送ろうと立ち上がりかけた瀬髙の袖をふっと押さえ、茄乃は慌てて手に持った金を差し出し、作り笑いをして言った。
「あのさ。
これでワンルームの安い空き部屋一つ、紹介してもらえないかな?」
「ワンルーム、ですか。
紙無様がお探しですか?」
「うん。
今日引っ越しするつもりだったから、今まで住んでた部屋を引き払っちゃったんだ。
さっき急いで管理会社に連絡したんだけど、もう次の入居者が決まったみたいでさ」
「今現在お部屋の荷物などはどうされているのですか?」
「取り敢えずそのまま引っ越し業者に預かってもらってる。
めっちゃイヤミ言われたけど」
それ以上は言いたくないのか、茄乃は瀬髙が再び座るとカウンターに片腕を乗せ、身体を捻って背後のガラス越しに通りを眺めた。
『へーき』と抑揚もなく言ってはいたが、
長い袖からのぞく柔らかそうな白い指先は暖房のきいた店舗内にいるにも関わらず
わずかながらに震えていた。
先週二人でやって来た時は溌剌としていて、逞しくもスマートな男の手に手を絡ませていたのに。
パートナーである浦霧の勤務先は誰もが知る国内屈指の広告代理店で、名刺を見れば役職づきでもあったから年収もサラリーマンの平均とは桁違いであったし、実際彼らの希望する物件は一般庶民ではとても払えない高額家賃の部屋ばかりだった。
30歳そこそこでその肩書きだと強力なコネを持った所謂超エリートなわけで、
瀬髙はこれまで相手にしてきた上級国民同様、鼻につく輩だろうと思っていたが、浦霧に限ってはそうでもなく、物言いも柔らかで側にくっついている無邪気な茄乃を温かみある視線で包んでいたのを覚えている。
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