ある幸薄き女の独り言

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ある幸薄き女の独り言

 私の名は金梨(かねなし)ふさよ。二十六歳の貧乏女子。もうこの名字を背負った瞬間から私の人生は躓いている気がしてならない 。  私の実家はど貧乏だった。唯一の救いは両親が明るい楽天家で、その影響か家の中は然程暗く無かった。  住まいがかなりの田舎だったので、私は年頃になると自然に都会に憧れを持つ様になった。  だが、我が家の家計に娘を大学に。それも都会に一人暮らしさせる金銭的余裕がある筈も無かった。  だが、そんな夢の都会生活を実現させる為の方法がたった一つあった。いや、正確に言うとクリアすべき課題は多々あった。  先ずは学費が抑えられる国立大学に受かる事。そしてその入学年度の学費等を親戚に頭を下げて借りる事。それが叶ったら都会での生活費を全て自分で賄う事。  私はそれら困難な課題を全てクリアした。決して勉強が得意では無かった私が国立大学に受かった奇跡は、両親より当の本人の私が一番驚いた。  そして念願の都会生活が始まった。その生活は当初田舎者の私にとって全てが刺激的だった。  やはり都会に出てきて良かった。だが、そう思ったのは最初の一ヶ月だけだった。大学の講義が終わると、残りの時間は全てバイトに費やされた。  休み月にニ、三回あるかどうかの忙しさだった。それでも生活はギリギリだった。同い年の皆が恋や遊びに夢中になっている様を横目に、私の四年間はただ大学の講義とバイトで終わって行った。  そして奨学金と言う名の数百万の借金を抱えた私は、めでたく大学を卒業した。否。全くめでたくは無かった。  熾烈な就職活動を戦い抜き、やっと勝ち取った内定は会社の倒産で全てが無駄になった。  それ以降、私は現在に至るまでの四年間、正規雇用に恵まれずにバイト生活を送っていた。 「ふさよちゃん。蔵から醤油を出して来てくれる?」  白猫の刺繍が入ったエプロンを着た七十代の女性が、柔らかな笑顔を私に向けてそう言った。 「はーい。分かりました」  同じく白猫のエプロンを着た私は、明るく返事をする。彼女の名は小夜子(さよこ)さん。私と小夜子さんは商品が並んだ陳列棚の補充を一緒にしていた。  小夜子さんが言う「蔵」とはバックヤードの事を意味していた。本来「蔵」とは昔の人達が保存食などを保管する建物の事らしいが、小夜子さんの名付けた「蔵」を私も気に入っている。  ここは私の住む界隈町にある小さな商店だ 。その名も「またたび商店」小夜子さんはこの商店の社長である権蔵(ごんぞう)さんの奥さん。  老夫婦が営むこの商店は、私が生まれるずっと前からこの界隈町で人々の暮らしに役立っていた。  内定先の会社が倒産し、途方に暮れていた時、私はこのまたたび商店の入口に貼られていた求人募集の紙に藁をもすがる気持ちで飛びついた。  元々この界隈町に住む私は、このまたたび商店をよく利用していた。私の顔を覚えていてくれた権蔵さんと小夜子さんは、即決で私を採用してくれた。  以来、私は大学卒業後四年間、このまたたび商店で働いている。権蔵さんと小夜子さんは貧乏な私に優しかった。  このまたたび商店の二階に社長夫妻は住んでいた。そして二階には別に部屋が二つあった。  昔から社員寮として用意された部屋だ。社員夫妻はパートの私にもその部屋の使用を許可してくれた。  家賃は光熱費込みで三万円と言う都会では嘘みたいな値段だ。二人の優しさはそれだけでは無い。  傷んだ野菜や賞味期限切れの食品を惜しげも無く私に持たせてくれた。夫妻はこの時決まって片目を閉じて「内緒だよ」と言って悪戯っぽく笑ってくれた。  社長夫妻の御厚意のお蔭で、私は経済的にかなり余裕が持てた。私は生活費以外のお金を全て奨学金返済に充てた。  その甲斐あって四年間で数百万あった借金を全て返す事が出来た。全て権蔵さんと小夜子さんのお蔭だ。    私は社長夫妻に一生足を向けて寝られない 。冬も最盛期の一月の終わり。私は間もなく訪れる春と共に運気が上がっていく気がしていた。  もうお金に悩む事も無く、前向きに人生を生きて行ける予感がしていた。 「金梨さん。納品の伝票整理は終わった?」  およそ愛想が欠落したその無機質な声に、私は妄想から現実に舞い戻った。 「は、はい。不方さん。社長にさっき渡しました」  私の目の前には、白猫のエプロンを着た男性が立っていた。黒く細い髪質。黒縁眼鏡。中肉中背の体格。  このまたたび商店には、私以外にもう一人従業員がいる。それが彼だ。     名前は不方泰山(ふかたたいざん)年齢は三十歳。この店での私の先輩だ。社長夫妻はかなり前から持病を抱えていた。  権蔵さんは腰に。小夜子は足にだ。持病の影響で二人は長時間店には出られなかった。店は主に先輩である不方さんと私で回していた。  不方さんはパートの私と違って正社員だ。その仕事は正確で迅速。社長夫妻の信頼も厚い。いや。と言うか、夫妻は店の運営をほぼ不方さんに任せていると言っていい。  不方さんは私のひいき目で見ても無愛想で 無口だ。その態度は権蔵さんや小夜子さん。果てはお客様に対しても同様だった。  だがらこの店で働き始めた当初、不方さんの冷たい態度に私は完全に嫌われていると思っていた。  いや。これは私の勝手な考えで本当に不方さんから嫌われている可能性もある。ぐう。自分で言ってて落ち込むわ。  落ち込むには理由があった。それは、またたび商店で働き初めて半年が経過した頃だった。私は社長夫妻が大事に飼っている白猫を探していた。 「ミケランジェロー?ご飯よー。どこー?」  私は餌が入った容器を片手に持ちながら、何時も気ままに店中を闊歩する白猫ミケランジェロを探していた。  私の足は蔵(バックヤード)の前で緊急停止した。蔵の中には人がいた。私はそっと入口から覗くとそこには不方さんがしゃがんでいた。  ······そして私は見た。不方さんが満面の笑みを浮かべ、ミケランジェロを持ち上げ自分の頬を白猫の額に寄せていた。  ズキューン!!  ······何かの発砲音が私の胸に。否。頭の中に。否否。私の全身を駆け巡った。射抜かれた。撃ち抜かれた。大穴を開けられた。  もう自分で何を言っているのか意味不明な位に私は頭が真っ白になった。私は一瞬で不方さんに恋をしてしまった。  え?笑顔一つで男に惚れるなんて安直?単純?ちょ、おいちょ待ってよ!!そんな事は無いわ!!  恋はする物じゃない!落ちる物よ!!(ややカメラ目線)   大学四年間が灰色で恋に飢えていたからじゃ決して無いわ!!ともかくそれからの私は職場に行くのがルンルンで仕方無かった。  だって好きな人に会えるんだから!!不方さんが非番の日は私は分かりやすくテンションガタ落ちだった。  そんな時私は改めて自覚する。私は恋をした。不方さんを好きになったのだと。そしてあっという間に月日が経過して今に至る。  私は三年半、片想いの不方さんに何も行動を起こせずにいた。時折心の中でトホホと落ち込む時もあるけど、好きな人と同じ職場に居られるだけで今は幸せだと前向きに考える 私だった。 「······泰山君。ふさよちゃん。ちょっといいかな?」  それは、一月末の身も凍る様な寒さの夜だった。店を閉めた後、私と不方さんは社長である権蔵さんに呼ばれ、蔵(バックヤード)に赴いた。二つのパイプ椅子に座る権蔵さんと小夜子さん。  権蔵さんは難儀そうに杖を使い立ち上がり 、突然私と不方さんに頭を下げた。 「······泰山君。ふさよちゃん。済まない。このまたたび商店を畳む事になった」  私は権蔵さんが何を言っているのか分からなかった。畳む?畳むってお布団や洗濯物の服を畳むの畳む?  このまたたび商店を畳むってどう言う意味 ?私は意味が分からず、思った疑問をそのまま権蔵さんに質問した。  すると、椅子に座ったままの小夜子さんが悲しそうに俯く。 「この店を閉店させる。そう言う意味だよ」  不方さんの素っ気ない言葉に、私は彼の顔を凝視した。  ······閉店?このまたたび商店を?その意味をやっと理解した私は、不方さんの笑顔に一目惚れした時の様に頭の中が真っ白になってしまった。  白猫のミケランジェロが甘えた声で鳴きながら私の足首に頭を擦り寄せて来た。だが、私は暫くその事に気付きもしなかった。     
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