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0 真夏のラブホテル
真夏の夕暮れ、山沿いの曲がりくねった車道をコンパクトカーで下る。
何十回も行き来した慣れた道なのに、私の心がざわめく。
まもなく健全な田舎の観光地に相応しくない宿泊施設が、右手に見えてくるから。
紫色に光る看板が目立つラブホテル。休憩3000円、宿泊5000円と書かれている。
子どものころからそこにある。何も知らない幼い私は、両親とのドライブで「あそこ、行ってみたい~」と無邪気に頼んで困らせた。もう二十年以上前の話だ。
私ももうすぐ三十歳の女。さすがにラブホテルの前を通過するだけでは、いちいちドキドキはしない。
でも助手席に好きな人を乗せていれば、話は別だ。
彼は、ボサボサした淡い色のくせ毛をかき分け、大きな丸い目をクルクルさせている。
まだ夕暮れ。こんなホテルに入る時間ではない──私は何を考えているの!
彼とはそんな関係ではない。キスすらしたことない。あくまでもただの友人。私が一方的に思っているだけ。
もうすぐ三十歳の自分。若い彼の恋愛対象になるわけない。ちゃんと自覚している。
「もうこの国に未練なくなった?」
明日、外国に出発する彼に、物分かりのいい年上の友人を演じる。
ラブホテルなんか見えない、知らない、意識しちゃダメ。
そんなことで頭をグルグルさせてるなんて、助手席の無邪気な彼に知られたくない。
この気まずい空間、時間、誰か何とかしてほしい!
「うーん、未練ならあるな。ほら、あれ」
子どもみたいな声で彼が指さしたのは……よりによって、問題のラブホテルだった。
やめてよ! 彼ってそういうキャラクターなの!?
無邪気で、彼女がいても健全な付き合いをするタイプと思ってたんだけど。
落ち着け自分、落ち着くの。
私は彼よりずっと年上。経験豊富なアラサー女。
実はラブホテルを通過するだけでドキドキしているとか、実はそんなところ行ったことないとか、実は……もうすぐ三十歳なのに処女だなんて、知られたくない。
さあ、余裕をもって切り返すの。
私は変わった。いろいろ変わった。彼と出会ってまだ半年も経ってないのに。
彼と会う前、私の好きな人は、この宇宙の住人ではなかった。
それは、宇宙を支配する超絶美形の暗黒皇帝陛下。
彼と会う前、私は暗黒陛下のイケボイスに耽溺する日々を過ごしていた──。
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