十九.寵愛

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十九.寵愛

 あの人に会いたくて、会いたくてしかたなかった。  憧れで焦がれて惹きつけられて。ある種の呪いにかかったような重すぎる愛は、決してあの人に届くことはない。  それでも私は、あの人のために全てを捧げてしまう。  社長は新進気鋭のデザイナーである。  今では世界的に名を馳せ、各国で開催されるファッッションショーに招待されるほどに成長したブランドは、多大な影響力を持つ。  ユニセックスなデザインにモード寄りな色彩は、人々を魅了してやまない。まさに天賦の才である。  だからこそ、神はそれ以外の人の根源をどこかに置き忘れさせた。  整理整頓は苦手で、時間は守れない。  急に眠ったかと思えば、二日間ぶっ通しで作業をしていることもある。料理なんてもっての外で、時に自分が女性であることすら忘れ去っていることもある。  服飾以外のことには全く興味がなく、ブランドの影響力すら理解していない。本人曰く「ただやりたいことをしているだけ」らしく、私は秘書らしく社長をバックアップするほかない。 「社長、明日は重要な授賞式ですから、今夜は大人しく寝てくださいね」 「うーん、分かったよ。これがもう少しで終わるから、そしたら寝るよ」 「それが最後ですよ? いつもそう言って、朝まで夢中になって時間を忘れてしまうんですから……」 「分かったよ。優は本当にうるさいんだから」 「そのまま、お返しします」  会社内に作られたアトリエで、社長と二人きり。社員はみな、帰宅している。  秘書である私は、社長を最後まで見届けるため、時間を共にしている。勤務時間外なはずなのに苦痛に感じないのは、相手が社長だからである。  密かに恋に焦がれ、距離が近くなればなるほど想いは大きく芽吹いた。秘書になるまで、ただの憧れだった存在が手の届く場所にいる。  それだけで息苦しい。この方と繋がれたなら、どれだけの奇跡だろう。  そう考えずにいられないほど今の私には社長が全てである。  今宵もまたアトリエの隣に用意された仮眠室で眠るのだろう。  そして社長の寝息を聞きながら、傍らにあるソファで睡眠を取る。  なんとも至福な一時である。  社会人になったとき、初めて購入したブランド品は社長がデザインしたものだった。  このときはまだ今ほどの高級ブランドではなく、少し背伸びをすれば購入できるくらいのものだった。  シルエットの美しさに魅了され、迷うことなく購入を決意した。  たった数回しか着ないだろうドレスは、友人の結婚式に相応しいレースで彩られたものだった。多くの写真に残された姿は、品を兼ね備えながら、しっかりと目立っていた。  このときから、私は社長に魅了されていたのだと自負している。  数年後、求人を見かけたとき、すぐに応募を決意した。運良く採用され、ビジネススキルを磨きながら、秘書にまでのぼりつめた。  知れば知るほど深い沼に堕ちていった。  服飾以外に興味がないことも妥協しないところも夢中になると周りが見えなくなるところも愛おしくてたまらない。  社長以外、必要ない。  私に好意がないことも知っている。それでもそばにいられることが、最大の喜びである。そばで支えられるだけで、満たされていた。 「社長、今度ファンション誌に特集が組まれることが決まりました。先方が社長と会いたいとおっしゃいっていますが、いかがなさいますか?」 「……考えておく」  断らないなんて珍しい。もしかたら、撮影にも同行するかもしれない。  そう思いつつ、スケジュールを確認した。  おそらく、来月にはコレクションの準備が始まる。それまでにデザイナーである社長は、コンセプトやデザインを決めなければならない。  例年以上に注目されている今回は、失敗はできない。だからこそ、神経質になり始めている。創作に没頭できるよう体制を整えなければならない。  報われないと分かっている。それでも私は、社長が最高のパフォーマンスをできるように尽くしていく。  このこじれた恋い焦がれた灯火は、消すことはできない。  本来、社長が行くべき視察に私だけで行くことは珍しいことではない。定期的な旗艦店への視察は、スタッフだけではなく、客層や雰囲気を知る上で欠かせない。  時に接客をすることもあるが、普段の様子を見るため、遠目で伺っている。  ここは旗艦店というだけあり、客層がまばらである。好立地でこの店舗で購入することが、ステータスとなっている。  興味本位で覗く人、普段から慣れている人、欲しいものがあるのに購入を迷う人。多様な客層がありながら、購入するだろう人は、雰囲気で伝わってくる。  明らかにこなれている。  全身を名高いブランドで固めたコーディネートの人はもちろんのこと、カジュアルな服装でもまとっているオーラが違う。  そういった買い物客を見抜き、スタッフはすぐに行動に移す。そして次なる購入へと促すため、ノベルティなどの策を講じる。  興味本位で覗きに来ただけの人には、購入したいと思わせるよう接客を行い、ブランドイメージを高めていく。緻密に練られた対策と行動で、デザインだけでは到底たどり着けない境地である。  すぐ近くで三十代半ばに見える女性がドレスを選んでいる。何か困ったような表情で、こなれたオーラをまとっているわけでもない。  ただの好奇心で声をかけた。 「ドレスをお探しですか?」 「はい……どれがいいのか、分からなくて」 「どういったご用途かお伺いしてもよろしいでしょうか?」 「妹の結婚式があるんです。そのときに着るドレスが欲しくて」 「おめでとうございます。それでしたら、こちらはいかがでしょう。線が綺麗に出ますが、露出は控えめで色合いもよろしいかと」  女性は手に取るとどうしていいのか分からないようで、動きが止まる。おそらく、高級ブランドに慣れていない。だからこそ、こちらから促してあげなければならない。 「奥に試着室がありますので、よろしければご案内致します」 「お願いします」とか細い声で言うと試着室の中へと姿を消した。  ふと若かりし頃の記憶が蘇る。  私も慣れない雰囲気にしどろもどろしながら、ドレスを選んでいたのかもしれない。その一着が人生を狂わせた。 「いかがでしょう?」  ドアの手前から声をかけると試着室のドアが開いた。  彼女本来の良さが全面の押し出され、これ以上にないくらい似合っていた。自信を持てない彼女は、うつむき加減で鏡を見ていた。 「よく、お似合いです。シンプルな黒のパンプスに合わせればなおよろしいかと」  パンプスを差し出すと促されるように履き、鏡の前に立った。落ち着いた大人の女性だからこそ、似合う風格がそこにはあった。  彼女にはどう見えているのだろうか。笑顔を向けながら、答えを待った。 「私、妹の結婚式が決まったら、ここのブランドで買おうって決めていたんです。普段はファストファッションばかりで、場違いな所に来てしまったと後悔しているとき、話しかけてもらって、安心しました」 「それは嬉しい限りです。まだ何着か試着なさいますか?」 「いえ、このドレスにします」 「ありがとうございます」  彼女は試着室へ戻るとき、柔和な笑みが漏れていた。  私もそうだったな。あのときから、長い長い恋が始まった。まだ見ぬデザイナーに焦がれながら、追い求めた結果、ここにいる。  社長への想いは叶うはずない。  そう知ってもなお、絶えず燃え続けている。  旗艦店での視察を終え、社長に報告していた。報告書をまとめただけでは、提出してもおそらく読むことはない。だからこそ、私が口頭ですべてを報告をしている。 「ありがとう。そろそろ私も顔を出さないといけないね」  のんきに紅茶をすすりながら、報告書を眺めている。このときばかりは、この報告書が役に立つ。  決して悪い雰囲気ではなかったが、社長が訪れることで志気が上がることも事実である。 「次はコレクション前に視察に行くよう、手配しておきます」 「大事な時期だからしかたないね」  納得したように報告書を閉じ、デザイン画に移行しようとする。 「社長、お待ちください。この後、会議が入っています」 「社長って常々、面倒だね」 「でも譲れないんでしょう?」 「私のブランドだから、誰にも渡したくない」  自分の立場をわきまえている。服飾以外に興味はないが、「やりたいことのため」なら、好きではない社長業務もこなしている。  ここまで大きくなってしまっては、私の入社当時のように自由には振る舞えない。コンプライアンスという言葉だけが独り歩きして、社長の首を締め付けている。  私はそうなりたくない。  好奇心の赴くまま、社長にはやりたいことに専念していてほしい。  だからこそ、社長の思想を理解し、面倒なことはすべて引き受けているのだ。  伝わっているのだろうか。  気付いているのだだろうか。  バレたくない。  だけど知ってほしい。  この矛盾した想いは、揺らいで離れない。  もうすぐ会議の時間が迫っている。もう連れ出さなければ。時刻を確認し、社長を促そうとする。 「大丈夫よ。分かっている」  そういって、社長は立ち上がり先に社長室を後にした。 「大丈夫よ。分かっている」  この言葉は脳内で共鳴して、なり続けている。それは私はもう必要ないと言われているように冷たく聞こえた。  好きなだけでは越えられない壁が、立ちふさがっているようだった。  その後の会議は卒なく進み、社長はアトリエへ戻りながら、帰宅を促された。定時は過ぎていたし、断る理由もみつからなかった。  一人になりたかったのだろうか。それとももう、と考え始めて、思考を止めた。  悪循環になるだけである。私はどうしたらいいのだろう。  答えを見つけられないまま、翌朝を迎えた。  電車から降りるとコーヒーを買った。  毎朝の日課のそれは、心を落ち着かせるために欠かせないものとなっていた。大衆の誰もが美味しいコーヒーも素晴らしいけれど少し癖のあるものが、私には合っている。  何種類の豆から挽かれたそれは、何倍にも美味しい。  顔なじみのスタッフに挨拶をすると社長室へと向かった。  自分用の社長室のデスクに私物を置くとアトリエのドアを開けた。 「おはようございます。また徹夜ですか?」 「もうそんな時間?」 「まだ次の予定には時間がありますので、朝食をご用意しました」 「ありがとう」  ボサボサの髪をなびかせながらデスクへと座り、バゲットの野菜サンドにかぶりつく。コーヒーを飲まない社長へ紅茶を淹れる。 「本当にそこのコーヒー好きよね」 「お飲みになりますか?」 「知ってるでしょ、苦いのは苦手なこと」  そう言いながら、思い出したようにデスクの引き出しを開けた。 「そういえば、これ、あげる」  受けっ取った袋を開けると希少なコーヒー豆が入っていた。  どうして社長が持っているのだろう。コーヒーは飲まないし、取引先も周知の事実である。  まったくもって噛み合わない。  困惑していると朝食を食べ終え、じっとこちらを見ていた。 「前に欲しいって言ってなかった? 知り合いが持っていたから少し譲ってもらったの」 「いいんですか? こんな高価なもの」 「えぇ、だって私には必要ないもの。日頃のお礼」 「ありがとうございます。せっかくなので社長も一緒に飲みませんか?」  僅かな沈黙の後、 「ミルクは多めで」 「かしこまりました」 「私もそろそろ、あなたに頼りっぱなしではいけなさそうね」 「そのために秘書の私がいるんです」  社長から貰ったこの豆にすべての寵愛が詰まっているように感じた。  ここにはコーヒーミルもエスプレッソマシンもない。明日の荷物が多くなりそうである。
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