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十 宿直
今日の夜勤は、いつも以上に暇だ。宿直の当番。順番にやってくる、警察署に泊まりの勤務である。
「エツさんと温泉に行くんですよ」
割り当てられた時間になり、開口一番、瀬戸が嬉しそうにそう言った。
飯田無流の相棒、瀬戸晴己は、変わった男だと思う。
無流も成り立ちは変わっているが、変人だと言われたことはない。
瀬戸は多分、出会った人間に一度は言われているだろう。
いつも人懐っこい秋田犬のような顔で、白い肌は触れずとも、もちもちしているとわかる。大柄で全体に造りが大きいが、太ってはいない。小綺麗でのびのびとした、育ちの良さそうな雰囲気が、大きさにまつわる全ての威圧感を相殺している。
それでいて、明晰な頭脳は誰をもしのぎ、先の連続傷害事件でも大いに活躍した。
「それ、何回目だ?」
「二人で旅行は初めてです」
「そっちじゃねぇよ」
もう何回も、エツさんと温泉に行くと聞いては、無流はうんざりした顔で応えているのだ。
連続傷害事件は関係者が多く、捜査の範囲が広かったこともあり、情報整理が困難だった。それを、瀬戸の機転が大きく作用し、上手く乗り切った。
そのご褒美として瀬戸は、敬愛し偏愛し執着しているエツさん――警部の志賀悦時――に迫り、二人で温泉に行く約束をしていた。
「だって嬉しいんですもん」
有りもしない尻尾が、ぶんぶんと激しく左右に振れるのが見えるようだ。
瀬戸は叩き上げの刑事の既成概念からは、果てしなく遠い男だ。犬に似ているから、駐在所の方が似合う。
読書家で、低く穏やかで優しげな美声。道楽で警察官になったのかと思うくらいだが、正義感は強い。深刻な局面でも緊張を緩和するのが上手いから、相棒として頼もしいのは確かだ。
瀬戸が相棒になってから、帰りは格段に早くなった。事件がある限り勤務中の暇な時間は無くなって、効率的で濃くなった。
それでもあの事件は事後処理が面倒で、警部の志賀が旅行に付き合える隙ができるまで、随分待たされた。
「悦時もよく乗ったな」
「伝令を頑張って、犯人も当てたからですよ」
「それは間違いなくえらい」
個人的な関係としては、不適切なのだが――警部の志賀は、瀬戸の使い方を心得ている。どこまでどう出来上がっているのかは知りたくもないが、瀬戸が志賀に相当な執着をしていて、志賀も特に嫌がっていないのはわかる。
年齢は親子とまではいかずとも、十五近く離れている。瀬戸は若く見えるし、実際、五歳も違わない無流から見ても、眩しいくらい若い。
「気安く悦時って呼ぶのやめてもらえます?」
「はいはい」
無流と志賀は昔馴染みだ。どこでどう生きても恋愛対象にされがちな志賀に、瀬戸が惹かれるのは仕方ない。
志賀自身も、色気や顔の良さの使いどころは弁えているが、恋愛にはどちらかといえば硬派で、一途な男だ。逆に、それが災いして、しなくていい苦労ばかりしてきた。
「無流さんはどうですか?北原さんと」
「どうって?」
「下世話な勘繰りはエツさんの専売特許ですけど、馴れ初めくらいは知りたいですよ。二人でいる雰囲気に違和感が無いから、心配はしてません。捜査協力のことは置いておいて、なんで恋人になったのか、まだ聞いてない」
瀬戸の推理力と調査能力に抗っても無駄だ。隠したところで、北原から聞くだろう。
「泊めてもらった礼を言って帰ろうとしたら、帰らないで欲しいと言われて――それからだ」
「あ、向こうからなんですね」
「向こうからじゃなきゃ、俺だって有り得ないと思ったさ。向こうからだったのも、有り得ないんだが」
北原をひと言で説明するなら、麗人である。志賀も俳優のように整っているが、北原はそれこそ、絵画か彫刻のような美貌だ。その上、人格者だし、教養もある。一介の無骨で無粋な刑事が言い寄るのは、一般的にはおこがましいと思われるだろう。
無流も身体の逞しさや人柄で、総合的にいい男だと評価されることはある。亡くなった妻も美しかったし、充分モテる方だろう。それでも、華やかでもなく不細工というわけでもない、平凡で無難な顔である。
初めは自分が勘違いしているか、からかわれているのではないかと思った。話し込むうちに、自分が思った以上に北原に必要とされているとわかり、関係を進めることにした。
「あぁ。高嶺の花なのはわかります。エツさんもそうだし」
「悦時が花ってガラか?」
「ねぇ、だから、その呼び方やめてもらえます?」
口を尖らせて文句を言うのが面白くて、無流は思わず笑ってしまった。
「昔から顔は良かったけどよ――花じゃねぇなぁ。もっと獰猛な動物だよ、あいつは。でかい鳥とか――角のある何かだ。恐竜かもな」
「獰猛って感じはしないなぁ。真剣な時の、猛禽類みたいな雰囲気はわかりますし、肉食動物なのも間違いないですけど。それだと、牙はあっても角はないかな」
「お前が妙にあいつを美人扱いするのは、面打たれたことが無いからだな」
「なんだ。剣道の話ですか」
「長いもん持たせたら勝てねぇぞ」
未だに試合で勝てたことがない。殺気を感じた時にはもう、負けている。
無流も若い頃は瀬戸のように、志賀に憧れていた。胴着姿や袴姿は誰より様になるし、志賀は強い。生意気なことを言って、悦時、悦時と絡む無流に呆れながらも、困った時は親身になって助けてくれた。ふざけて下世話な冗談でからかってくるのは悪い癖だが、充分、尊敬できる大人だった。
志賀が警察官になったからこそ、無流は僧籍を持ってなお、警察官になる道を選んだ。
気に入られていることも誇らしくて嬉しいし、特別で、大事な人なのは間違いない。だが、過去を知り過ぎているのもあり、二人でいるとどうしても後ろ向きになってしまうのが、お互い良くない。上司と部下になれたのは、最良の道だったと思う。
「別に、戦う気もありませんけど――僕だって柔道の寝技なら負けません」
「懐に入るのが上手くて、距離感がおかしいのはそのせいか」
暇過ぎて、ふざけていないと間が持たない。
「エツさんと無流さんが、真剣勝負ほど人と距離を取り過ぎるのは、そのせいですね」
「――かわいくねぇなぁ」
無流が鉛筆の尻で瀬戸の頬をむにむにと押すと、やんわり腕を取られ、固められた。
「お土産買ってきて欲しくないんですか?」
「どうせ手拭いか、まんじゅうだろ」
大袈裟に「参った」と言って離してもらいながら、「真剣勝負ほど人と距離を取り過ぎる」というのは、的を射ていると感心する。
色々と込み入った事情があって、志賀は今まで、二度も離婚している。
妻子の話になりがちな大勢で騒ぐ酒宴を避け、妻を亡くした無流とばかり飲んでいたのもそのせいだ。
いつも自分だけがいつまでも執着する羽目になり、相手に切り離される。
だから、人と深い仲になるのが怖い。
その呪いのようなものを、瀬戸の異常な前向きさが解いてくれる気がして、酒の席に誘った。瀬戸といると気持ちが明るく、楽になるのは無流も同じだ。
「エツさんと一緒なら、地酒か漬物かな。二人で一緒に行くって知ってるのは無流さんだけだから、要らないんなら省略します」
「どこまで行くんだよ」
「山梨です」
「そんなに遠くないな」
「警部ですからね。近場じゃないと、事件があってもすぐ戻って来られないでしょ。連絡先は置いて行きます。エツさんが気に入るようなら、無流さんも北原さんを誘って行ったらいいんじゃないですか?多分、あの二人なら文化水準も美的感覚も近いでしょう。苦労人っぽいところも似てるし」
やはり、瀬戸は全部わかった上で、志賀に執着している。北原と志賀に通じるところがあるなら、無流と瀬戸にもどこか似たところがあるのだろう。
年上の美人に弱いというだけでは無さそうだ。
「お前だって、いいとこの子だろ?」
「本だけはたくさん読めましたけど――無流さんが想像しているような家庭環境ではないですよ」
お喋りな瀬戸だが、そういえば、あまり家族の話はしない。
掘り下げるべきか迷って、話を戻すことにした。
「土産は気にすんな。楽しんでこい」
「楽しみです」
瀬戸はそう言ってまた、犬みたいに笑った。
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