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十一 片想い
今期は、啓と和美が選択している講義はあまり重なっていない。
それでも、昼食はできるだけ一緒に食べる約束をした。学生食堂の定位置に座り、来ない場合はそのまま一人で過ごす。
今日は会えないかと思った頃、和美が滑り込むように向かいの席に座った。
「遅かったな」
「話の長い先輩に捕まった。ほら、もう二度とモデルの話は受けないってお前に言った、あの人」
珍しく、気疲れした様子だ。
「あぁ……和美を好きなんじゃないかって僕が言った人?」
右目で見た時に、あまり良くない色が見えたのを覚えている。双方向でいい関係なら、明るく暖かい光や色が見えるから、心配になって和美に言ったのだ。
「そう。はっきり言ってくれれば、こっちもきっぱり断れるんだけどな」
「困ったね」
「あんまり期待させないように、他の人の依頼も受けただろ。みんな今回の展示作品にしてるから、それが悔しかったみたいだ」
和美の家は特に金銭面で困っているわけではないが、本当に困った時だけ頼る方が気が楽だからと、金を貯めている。画材はほとんど先輩や檀家のつてで手に入れ、小遣い稼ぎに絵のモデルをしている。
昨年は、和美と同じく江角先生に師事する仲間だけだった。今年は、その作品を見た学生からの依頼を倍ぐらい引き受けていた。
学内に限定しなければ、もっと依頼されただろう。
件の先輩は、人気のある和美を描くことで自分の力を誇示したいのだと思う。やたらと褒めるのは、和美に好かれて意のままに操るためであって、本心ではないように聞こえた。
和美の美しさは、内面の豊かさと優しさ、美意識の高さで成り立ったものだ。それに気付かず、かたちの美しさだけ写すなら、石膏像を描くのと変わらない。
自分の想像を具体化する土台や助けにするだけならまだしも、モデルの生身の持ち味を利用するというのは、本人が望んで残す肖像画とは違う。
本当に想い合っているか、信頼関係を築けていれば問題ない。一方的に、描く側の印象や心理を描くにしろ、尊敬する気持ちが無ければ、陳腐な欲望が露見するだけだ。ただ美しさに向き合い、探ろうとした方が上手くいく。
モデル自身が能動的に、妖艶に、淫靡に振る舞うとしても、描き手が演出し要求しても、双方の技量や画風が噛み合わなければ滑稽なものになる。美の追求ではなく、そういう娯楽と割り切って楽しむならそれもいい。
「僕は写真科の先輩がいいと思ったな」
和美は均整の取れた体型で、和装も洋装も似合う。化粧映えもするから、絵に描くより実物を撮る方がモデルの良さは伝わる。
「うん。俺も今回は写真が一番楽しかった。作品もかっこよくできたし。でもあの人は――彼女がいるから、残念ながら俺とどうにかなることはないな」
「そっか。一番、気が合いそうだと思ったのに」
和美もそう思っていたのだろう。ライスカレーを飲み込みながら、渋い顔で頷いた。
「まあ、素敵な人には既に相手がいるもんさ。相手がいるから素敵になれるのかもしれないし。ここは男ばっかりだから、そもそも茨道だ。学生のうちは同性とも遊んで、卒業したら異性と結婚するって輩も多い。お前みたいに運命的な絆は、そうそうあるもんじゃない」
「学校以外なら?愛子ちゃんとか、仲いいだろ」
「おい、あの子はまだ十五だ」
それでも英介と啓よりは歳が近い。愛子は美少女だし、結婚可能な年齢が十六になったのはつい最近だ。
和美は女性にもモテるが、条件がいいから望まれているだけで、特別な絆は感じられないとよく言っていた。家族が恋人同士になる前から、愛子とは気も合って楽しそうにしている。
「今どうするかとか、変な意味じゃない。これから先ってことだよ。大人っぽいし可愛いし、頭もいいだろ。お前のことも気に入ってると思うし――」
「何」
和美は訝しげな顔で、啓の言葉を待つ。
「二人でいると恋人同士に見える」
和美がそういう冷やかしが嫌いなのは知っている。だからこそ、お似合いだと思う。
「俺が安全な男だから、信頼してくれてるんだ。邪な気持ちがあったら避けられてる。兄妹みたいなものだ。お前と愛子ちゃんも、二人でいればそう見えるよ。啓は十五歳くらいに見えるしな」
和美はわざと鼻で笑って、冷たく啓をあしらう。
「言ったな。じゃあ、八重さんは?」
「面白いし大好きだけど、俺のことは好みじゃないんじゃないかな。あの人は、色恋と関係ないところがいいんだよ。結婚は義務じゃないし、するつもりないって言ってた。三蔵がいればいいって」
「男より猫か」
三蔵というのは、先の事件で大活躍し、八重が引き取った三毛猫の名前だ。
「そんなこと言ったら、八重さんと愛子ちゃんの方が仲いいだろ。俺とより、その二人の方がうまくいきそうだ。彼女たちの幸せに、男なんて要らないんじゃない?俺たちが選べるみたいに言うのは失礼だ」
「いつもは気を付けてるけど、和美は好かれてるから。子どもができても、ちゃんと育てられそうだし」
啓も彼女たちのことを気に入っている。そうなる可能性があるなら応援したい。品定めをするつもりはないが、彼女たちの意志を尊重すべきなのは、その通りだ。
「お前が好きな人を集めて、周りにいてほしいだけだろ」
「うん」
「欲張りだな。そういうところも嫌いじゃないけど。煩悩は俺よりお前の方がもて余してるんじゃないか?俺も橋渡しや縁結びは好きだけど、それは、お互い好きだとわかってる時だけだ」
何から何まで和美が正しい。
他人の恋愛に興味はなくても、和美の幸せとなれば別だ。
「あ、そういえば、土曜日は八重さんも来てたよ。地域面に一般公開の案内が載るって。和美の作品、褒めてた」
「えー!まさか撮られた?俺、いつもより写真映えしないの描いちゃったのに」
「確かにあの絵は、写真じゃ伝わらないな。個人的に感想を伝えたいって言ってただけだから、記事になるわけではないと思う。お祖父さまも禅を感じるって褒めてたよ」
「禅?なんで」
「刷毛目の付け方とか?八重さんと、枯山水って抽象画なんだねって話をした」
「あぁ――確かに……いいなぁ、俺も会いたかった」
珍しく本気で後悔している。八重のことを気に入っているのはよくわかった。
「八重さんは直接話したいって言ってたし、今週末も来るんじゃないかな。愛子ちゃんでも八重さんでもないなら、江角先生は?仲の良さなら一番だろ」
和美は師事する江角久子と、姉弟みたいに仲が良いのだ。彼女の気さくさによるものではあるが、対等でいい関係に見える。
「その話まだすんの?無い無い。久子先生が好きなのは――」
「何。英介さん?」
言いかけて途中ではっとして止まったのが気になり、勘繰ってしまう。
「高梨先生に聞いてない?」
「何も。あ、おうちで許婚がいるとかそういう話?政略結婚もお見合いも全然応じなそうだけど」
和美は、カレーを食べ切るまで答えるか迷ったものの、話を続けた。
「久子先生の好みは、お前のお祖父さまだ。ああいう渋くて落ち着いた人が好きなんだよ。というか、標文先生以外に興味ないはず。俺なんか飼い犬みたいなもんだよ」
「は?」
意外なところに矢を放たれ、動揺する。
「だから、高梨先生のお父さんに頼んで、書道教えてもらってたんだって。高梨先生は抑え役として、付き添いみたいな感じで巻き込んだって言ってた」
「そうなのか」
「当時はお前のお祖母さまも生きてたし、高梨先生がそれを啓に言うのも口止めしてあるって。血縁者だからな。完全に秘めた片想いだ。まあ今、俺が言っちゃったけど」
英介との仲を疑っていたのに、とんでもない勘違いだった。知ってみれば、今までの違和感も納得だ。
「趣味はいい」
標文は粋だし、憧れる気持ちはよくわかる。軽々しく言えないほど、大事な想いなのだろう。
「お祖父さん、若い女に興味無さそうだよな。そういうところも好きなんだろ。もっと若い時から好きみたいだ。男女の話じゃなくて、作品に惚れたんだと思う。内緒にしろよ」
「うん。北原さんも色々あったって言うしなぁ」
「ん?」
「北原さんは愛妻家が好きだから、絶望的に恋が実らないって、高梨先生が言ってた」
「あぁ……だから兄貴を」
「あんなに自由に相手を選べそうな人たちでも、そうなんだな」
「楽しく過ごしたいだけならもっと気軽なんだろうけど、お互い、ちゃんと想い合いたいとなると、中々なぁ。自由に選べたとしても、付き合いを続けるのは難しいよ」
「うん……」
「啓、高梨先生と何かあった?」
「え……」
煩悩をもて余してると言われたせいか、つい、この前のことを思い出した。
「悩みなら聞くけど」
勘繰っているのではなく、心配してくれたらしい。相変わらずいいやつだ。
「悪いことじゃない。ちょっとだけ――進展したというか」
「おっ。高梨先生もやっと腹をくくったか」
和美は自分を棚に上げ、いつも啓たちが奥手過ぎると煽っていた。
「僕も英介さんに対してぐらいは、積極的になりたいと思って」
「自分から迫ってみたってことか」
「そんな感じ。僕が英介さんに合わせてるだけだと思われたくないし……煩悩だってある」
あまり生々しい話はしたくないが、和美ぐらいにしか言えない。
「凄いな。ほんとに好きなんだ」
啓が照れる様子で大体察したのか、和美は目を細めて、眩しそうに笑んだ。
「なんだよ今更」
「勇気出したんだな」
「……うん」
「まあ啓が強めに迫ったところで、子犬が甘えるくらいのもんだろうけど」
「それは、そうだけどさぁ」
気まずくならないようにだろう、そうからかわれ、二人で笑い合う。
「ごめんごめん。俺だって大した経験ないって。大事にされてるんだな。いいなぁ、両想いって」
「たくさん片想いされてるだろ」
「お前より好きになれそうな相手はまだいない」
「それはそれで嬉しいけど、なんで僕なのかはわかんない」
「お前、自分のこと地味とか平凡とか言うけど、結構かわいい方だよ。一緒にいると和むし、才能に惚れてる人間も結構いるのに、全然気にしてないんだもんなぁ」
「それでも、英介さんとも和美とも、釣り合わないって思ってた。もったいないっていうか……助けてもらうばっかりで、何も返せてないと思った。それでも、何もしないのはやめた。勝てるのかもわからない相手から、僕を守ろうとしてくれた――和美が教えてくれたんだ」
眩しいものに憧れ、自分には力が足りないと、弱さばかり見てしまっていた。それでいて、その弱ささえ自分だけのものだと抱え込んでいた。
どんなに微力でも、力は力で、自分以外の誰かのために使えるのだと――絵を描くことや事件を通して、他者や世界との関わりに前向きになれたのは、和美が見守ってくれたことが大きい。
「俺も、お前みたいになりたかったんだ。自分の体質を嫌っても、人にどう思われるかは気にしてなかっただろ。苦しんでたのは、自分であることから逃げなかったからだ。後ろ向きなところもあるけど、絵を描くのが好きなことはわかる。自分の意見をしっかり持ってるし、先生を好きなことも隠さなかった。俺みたいに、虚勢を張って取り繕ったりしないのは、強さだと思う」
「そんなことないよ。僕は――もっと、和美みたいに上手くできたらって思ってる」
「自分らしくいるためには、上手くやっちゃ駄目なのかも。波風立てないようにしちゃうけど、俺も本当は、もっと正直でいるべきなんだ」
「僕は嘘つきは嫌いだし、和美もそうだろ」
嘘をつくのも、取り繕うのも、周りに合わせるのも不得手なだけで、そうありたいわけではない。誰かを心配させずにいられたらと思うのに、危なっかしいままだ。
「嘘をつかないことと、自分の気持ちを隠さないことは違う。素直さと正直さも別のものだ」
「和美はそのままでいいと思う」
「お前もな。お前の前では、俺らしいと思える――別の誰かといる時が駄目なんだ」
「自分らしくいられる人といるのが好きってこと?好きな人の前なら自分らしくいられるってこと?」
「自分らしくいさせてくれる人に出会って、幸せになりたいってことかな――どうすればいいか少しわかった気がする。ありがと」
和美は寂しげにも見える眼差しで、そう言って笑んだ。
食器を片付ける和美を眺める。啓も、自分らしくいられる相手だから、英介と幸せになりたいのだ。自分を偽る必要がないから好きなのだと、改めて確認する。
戻ってきた和美に、ふと思い出してきいてみる。
「北原さんは、津寺先生が好きだったんだって」
「うわ……わかる」
和美は目を丸くしたものの、頷いた。
「そうなんだ。無流さんに似てるって英介さんは言うけど、にこにこしてて、優しそうな印象しかないな。どんな人?」
「愛妻家ねぇ、なるほど。ああ見えて、分析力も問題解決力もあるし、頼れる人だよ。兄貴より瀬戸さんに似てる気もするけど、瀬戸さんの方が狡猾さがあるかな」
「へえ」
「兄貴はそういうの結構、鋭いんだよなぁ。北原さんと津寺先生が二人で話してるの見たら、わかっちゃうかも。俺も、今知っちゃったから隠してもばれちゃう」
和美はちょっと楽しそうではあるが、苦笑いしている。
「隠した方がいいの?どうせ愛子ちゃんは元々知ってるし、いずれわかるよ」
「ちょっと愛子ちゃんと相談しようかな」
「じゃあ、また甘いものでも食べに行こうよ」
「いいね。どこにする?」
久々に二人らしい日常が戻った気がして、啓はうきうきと甘いものに思いを馳せた。
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