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一 作風
『浸食 油絵二年 坂上啓』
『光 油絵二年 飯田和美』
『友 油絵二年 小出伊知郎』
芦原美術専門学校別館。
展示ホールに飾られた学内展の作品を眺めながら、啓はため息をついた。
「和美も小出も、作品に意味と情緒がちゃんと感じられていいなあ」
秋に解決した連続傷害事件、珍猫連続行方不明事件、小出とその先輩である布袋充の行方不明事件の事後処理に追われ、やっと疲れが抜けたと思えば、もう冬だ。
「見た光景をその通りに伝えるのも大事だよ。あの日、坂上が見たのはこんな風景だったんだね」
小出が啓の絵を眺め、感心しながらそう言った。
啓より小柄で、以前は暗い印象もあったが、最近は明るい表情でいることが増えた。派手さはないが整った顔。柔らかそうな黒髪を真ん中で分け、自然に流している。
「啓と同じ体質でも俺にはこんな風に描けないし、これはこれで強味だろ。一時期は高梨先生の絵にかなり似ちゃってたけど、凄く啓らしくなったと思うな」
和美も言って、寄ったり離れたりしながら、絵を眺めている。
和美は全体に色素が薄く、顔は細面で和風。よくある狐のお面を思わせる、口角が上がった薄い唇。一重まぶたで切れ長の目が魅力的だ。しなやかで均整のとれた体つきは中性的な印象で、姿勢が良く、実際の身長より高く見える。
啓は、やや小柄で、いたって平凡な容姿だ。真っ直ぐな黒髪と、地味で大人しそうに見られる童顔。
唯一目立つのは、生まれつき赤い右目――人には見えない光景が見える特異体質だ。
右目からだけ見える景色は、大きく分けて三種類。
脈略無く現れ、物理法則や実際の光源を無視して動き回る、動物や自然物。
実際に目の前にいる人物や動物から放たれる、光の粒子。
啓が求める情報と誰かの意思が合致すると、脳裏に浮かぶ視覚情報。
幻覚と言って片付けるよりも、普通の人間が無視したり知覚できない情報が、目か脳の情報処理が原因で見えるのではないか――と分析されていた。
必要な会話だけを拾う時、無意識に無視している音があるように。誰の目にも見えているのに、わざわざ意識をしていない部分が、人より細かく分析されて見える体質なのだ、と。
それから、右目のせいなのか、おかしな夢をよく見る。
先日は熱に浮かされていた際、離れた場所で起こっていた現実の出来事を見てしまった。
電波放送を受信するような仕組みでそうした映像が見えるなら、今はわからなくても、もしかしたらいずれ、仕組みが解明できるのかもしれない。
少し前まではその体質を疎む気持ちの方が強く、人前では眼帯を着けていた。
事件解決に役立ったことで前向きに考えられるようになり、不便が無い時は眼帯を外すようになった。
『浸食』は、事件の途中で夢に見た、雨の日に地上を海が浸食してくるような光景を描いたものだ。
手前の住宅街には雨が降っている。海の生き物が遊泳し、遠くからこちらに向かって海中の光景が迫って来るような絵。
描写についての評価は良かった。ただ、珍しい光景というだけで、伝えたいことが込められていないのではと言われた。今後の課題は、自分の感動を込められる対象や、観る人に何かを思わせるような題材選びだ。
小出は、和美の絵を興味深そうに眺めている。
啓とは元々、画室高梨で画家の高梨英介に師事しているという共通点があり、仲も良い。
あの事件を通して、小出と和美もすっかり仲良くなった。学内では三人で一緒に過ごしたり、小出と和美だけで過ごす機会も増えた。
和美の実家は寺だ。檀家との付き合いに慣れていることもあり、間口は広く付き合いも多い。それでも、友人として個人的なことを話す相手はさほど多くはないらしい。
啓の右目に理解があり、入学してからずっと仲良くしてくれている。思いやりがあって明るく、面倒見の良い親友だ。
小出は実家が動物病院で頭が良く、知識が豊富で観察力もある。相手の話をきちんと聞いて拡げられるので、お互い話していて楽しいようだ。
「飯田の絵は『光』だけど、いつもより暗いのはなんで?」
小出の問いに、和美は頷いた。
「これは、小出を助けに行った時の懐中電灯とか、啓が襲われた時の街灯とか、暗闇にある光を描いたんだ。題は『闇』とか、『明暗』にするか迷った」
写実的な作風の啓と小出と違い、和美が得意とするのは抽象画だ。
いつもは生きて動いているような躍動感のある流線で、色彩豊かな絵を描くことが多い。具体的なモチーフが含まれることもあるが、瞬間的な情動や体感した空気を、絵の具の厚みも含めた筆致や色使いで表現するのが上手い。
『光』は、黒っぽい部分に寄ってみると、そこにある植物や建物の凹凸や艶などの質感がわかる。夜闇や閉所の闇の重さと、光の安心感や緊張感が描かれた作品のようだ。
「なるほど」
「小出のはこれ、布袋先輩?」
「うん。最近アトリエでほとんど一緒にいて、モデルにしやすかったから。服装はちょっと北原さんっぽくしてみた」
薄暗い街を背景に、黒い外套を纏った眼鏡の男がしゃがんで、猫に手を伸ばしている。物語の一場面のような絵だ。
小出も薄暗い絵が多いが、陰影の緻密さや立体感が見事だ。啓の表現が色づかいに寄っているのに比べ、少ない色で正確に形を浮かび上がらせる。
鉛筆でのデッサンを見るだけでも、群を抜いてはっきり上手いとわかる。
既に学外での評価も高く、文化人や富裕層に人脈を広げつつある。
北原さんというのは、北原画廊の店主、北原諭介のことだ。啓たちの師、高梨英介の叔父でもある。
和洋折衷の画廊の中では和装だが、出歩く時は英国紳士のような洋装が多い。長めの前髪で、傷のある右目を隠してもなお、華やかな美貌。
画廊では、独自の美意識で集めた美術品や画材を扱っている。
三人ともどうしても事件に関係したことを題材にしてしまう。それだけ大変だったのもあるが、事件を通して自分たちが成長した実感はある。
「先輩と小出は、今どんなの作ってるの?」
小出は事件の前後から、彫刻科の先輩である布袋のアトリエで、神話を題材にしたレリーフの連作に熱心に取り組んでいる。二人で考えた世界観を、小出が具体的にデザインし、布袋が立体物に仕上げる合作だ。
「レリーフの企画とは別に、神社の狛犬とか、西欧建築の屋根にあるガーゴイルとか、各国の門番的な像をひと通り作ってみようって話してる。僕らの作風にも合うし、先輩のお父さんの建築の仕事とも繋がれていいかなって」
「いいなぁそれ!ぴったりだ」
啓が感心するより先に、和美がそう言って目を輝かせた。
布袋先輩と小出は、怪奇幻想趣味で意気投合した二人なので、本当にぴったりだと思う。
「僕もそう思う」
遅れて僕がそう言うと、小出はやや大きい犬歯をのぞかせて、にっこりと笑った。
「あ、高梨先生も見に来るって言ってたけど、いつ?飯田のお義兄さんにも会いたいな」
毎年秋から始まるこの展示は、一般向けにも公開される。
四年生の卒業制作を展示する前に、若い学年から段階的に展示する。
「高梨先生が来るのは、今度の日曜だよ」
「うちは次の週の日曜に兄貴が、北原さんと愛子ちゃんと来るって。親は来るなら平日かな」
和美の義兄、飯田無流は刑事で、事件の時はみんな随分世話になった。大柄で一見強面だが、面倒見が良く、頼りがいのある人だ。小出は特に恩を感じているのだろう。
北原の姪である愛子も、無流にはすっかり懐いた。
「そっか、うちの両親も次の週だから、無流さんに挨拶できるね。坂上のお祖父さんは?」
「先生と同じ日に来るって言ってた」
啓の祖父、坂上標文は書道家だ。啓を美術の道へ進ませてくれたのも祖父で、高梨父子や北原とも親交がある。寡黙だが、しっかり啓を見守ってくれている。
「あ、あれ布袋先輩じゃないか?約束してたんだろ」
和美が指差した方に小出が振り向くと、向こうも気付いた。
「本当だ。じゃあ、また講義で」
「うん」
「またな」
小出と別れ、啓は和美と二人で、ゆっくり他の展示を回ることにした。
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