三 支え

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三 支え

 画室高梨(がしつたかなし)は、高梨英介(たかなしえいすけ)が在宅の際はあまり、玄関を施錠していない。  (けい)小出(こいで)も、自分の通う曜日は呼び鈴を鳴らさずに入室し、鍵をかける。  そっと入室すると、英介は居間のソファで仮眠を取っていた。  啓が来たら起きるつもりでいるのはわかるが、よく眠っているので起こすのも忍びない。  洋風建築の一階は画室と水回り、二階は英介の寝室と書斎に分かれている。  大きな絵を描く都合もあり、英介の画室は吹き抜けになっている。大きな窓から自然光が入り、雨天でも昼間はかなり明るい。  啓たちが使う教室部分とは、柱と棚で仕切られている。玄関とは別に搬出用の扉もあり、土足で入れる。  玄関で靴を脱ぎ、階段三段分ほど上がったところから板張りになり、左手は腰の高さの低い壁で仕切られた居間と台所。右手に二階への階段。  正面の扉を開けると、奥の手洗いと浴室に廊下がのびている。住居部分は画室に比べると落ち着いた色の照明だ。  居間には窓側にソファ、台所側には広い食卓がある。  富裕層ではあるが、英介は料理が好きなのもあり、身の回りのことは全て自分でやっている。  啓と恋人になってからは週に何度か、夕食を振る舞ってくれるようになった。先の事件で啓と共通の知り合いが増えたので、集まる機会も増えた。  出会って七年。啓は二十歳、英介は二十六歳だ。あの頃より大人の男になった英介も、寝顔にはまだ十代の頃の面影が見える。  叔父の北原とは特に似ていない。体型も顔の造りも均整が取れていて、清潔感がある。絵を描いている時以外は優しげな印象だ。近くのソファに座ってしばらく眺めていると、啓の気配に気付いたのか、英介はもそもそと動き始めた。  床に半分落ちた毛布をかけ直そうと立ち上がったところで、吐息とともに薄く目が開く。 「坂上(さかじょう)――今、何時だ?」  二人の時は啓と呼んでくれるようになっても、教室では坂上、坂上くんと呼ぶ方が多い。啓も、指導される間は先生と呼ぶ方が自然で楽だ。 「まだ来たばかりなので、四時台です」 「あぁ……よく寝たな。もう、日が暮れるのが早い」  ゆっくり起き上がり、髪を整える。  清潔感はあるが、顔はまだ眠そうだ。 「徹夜ですか」 「気付いたら夜が明けてて――夜に寝そびれた。風呂には入ったよ。君が来るまで寝ようと思って」  カーディガンを羽織り、立ち上がる。 「新作、できたんですか」 「まだ修正はするけど、一応ね」 「見てもいいですか」 「もちろん。感想を聞かせて。紅茶でいいか?」 「はい。ありがとうございます」  啓は眼帯を着けて画室に降り、英介は大きなあくびをしながら台所に向かった。  英介の新作は、夕焼けの絵だ。  正確には、夕焼けに照らされている少年の絵。見晴らしの良い高台の突端で、ぼんやりと夕焼けを眺める少年を横から見ている。  いつもながら、空の色や空気感が美しい色彩で描かれている。空気や風の流れを思わせる細かい筆致が絶妙で、身近な風景でありつつ、幻想的な魅力がある。  三十号の絵に近寄ったり離れたりしながら見ていると、「お湯が沸くまでもう少しかかる」と、英介が隣に立った。 「綺麗ですね。細かい葉や髪の動きと、光の反射で、風の通り道がよくわかる。沈む太陽は描かれていないのに、どんな景色が見えているのかが想像できて――」  あの事件の解決が見え、和美と帰り道を歩いていた時の夕焼けが、ちょうどこんな色だった。  気になるところに技術的な質問をし終えたところで、英介と目が合う。 「眼帯を取って見ても同じ?」 「……見てみます」  右目が反応するのは主に、現実の生き物だ。外を歩く時は意外と不便は無いのだが、作品を鑑賞する際は、余計なものが見えると邪魔になる。それでも最近は、自分に関係の強い写真や絵画に少しだけ、光や色が足されて見えることがある。  英介は、物理化学に関心が強い。絵にもその知識は役立つし、料理もその延長らしい。啓の右目のことも疑ったり笑うことなく、霊的な事象を否定することもなく、事実として受け入れてくれる。  眼帯を取って再度、絵に向かう。 「――あ」  ここに描かれている少年は、啓だろう。夕日が映り込む眼球の表面から、彼の頭の中に、啓が感知する光の像が広がっているように見える。  英介が度々、啓を描いているのは知っている。それは現実にあった場面ではないことが多いが、現実の啓に近い像だからそう見えるのだろうか。 「どんな感じ?」 「この辺りに、僕がいつも見るような光が見える気がする」  少年の頭の辺りを示して見せると、英介はちょっと嬉しそうに驚いた。 「それ、僕が隣の部屋に行っても見える?」 「え?」 「君、自分と側にいる誰かの思念みたいなものが、混ざることがあるって言ってたろ。髪を塗る前に一旦、そういう光景を描いたから――透視じゃなければ、多分それは、僕の思念の可能性が高いね。ん……お湯が沸いたな。ゆっくり来て」  沸いた薬缶の鳴る音が微かに聞こえ、英介は台所に向かう。  ――確かに、英介が去ったら、さっきまで見えていたほどの鮮やかな色は見えない。 「おぉ……」  和美も似たようなことを試そうとはしていたが、具体的な分析の答えが出るのはいつも、この画室で英介といる時だ。  少年の頃、啓の絵はもっと混沌としていた。それはそれでいい味だったと言えたが、その混乱は啓自身には負担だった。英介の分析で整理されたことで、絵にしやすくなった。  師弟関係になってすぐ、啓に見えている景色を説明させた。それを聞き取りながら、大きな紙に再現して見せたのは圧巻だった。英介自身もその体験で自分の表現力が上がったと言うが、啓よりも啓の視界を上手く再現できるはずだ。  英介の観察力や記憶力は、啓に対してだけ発揮されるわけではない。過去に一度だけ呟いたようなことでも、細かく覚えている。北原は執着や独占欲だとからかっているようだが、啓にはありがたい。  小出の指導でも似たような構想のすり合わせはしているから、彼の才能の一つなのだろう。 「英介さんの言った通り、離れたら薄まりました。やっぱり、相互作用で見えるものなんですね」 「面白いな。他の人が君を描いても、そうなるのかもしれないね」 「そんな物好き、和美と英介さんぐらいだ」 「ライバルが少なくて助かる。さ、どうぞ召し上がれ」  おどけるようにティーカップを置き、向かい合って食卓につく。 「いただきます」 「学内展は、どうだった?」  香りの良い紅茶と、焼き菓子を味わいながら、言葉を探す。 「やっぱり、他の科の方が気軽に見られるかな……和美の絵もいつもと違ったけど良かったし、小出の絵は完成度が高かったです。どうしても自分の弱点が気になって」 「どんなこと?弱点がわかってるなら、意識できる」 「絵を見てどう感じてほしいかとか、そういう気持ちの込め方かな。意識しても直るかどうか」  後ろ向きでもそれは、正直な気持ちだ。 「そこは私の出番だな。見る人はそれぞれ感じ方も違うし、君の描きたいものはその通り描けてはいると思うけど――演出の仕方は色々あるだろうね。他の学生の絵も見ながら、ゆっくり話そう」 「お願いします。さっきの話で、つかめそうな感じはしました。お祖父さまもたまに、ああいう実験みたいなことをしてくれた。主に、安全に生活するための分析だったけど」 「ああ、ここで預かる時にも話してくれたよ。仕組みは理解できそうだけど、自分の想像力が及ばないから、形にしてやって欲しいと頼まれた。もちろん、君がそれを望んでいたのが前提でね」 「そっか……」  祖父はあまり世話を焼いてこないが、啓を思ってくれているのはわかる。両親も啓を愛していないわけではない。理解が及ばないのが負担だったのだろう。展覧会にはちゃんと来てくれているし、以前より啓に対しての戸惑いは少なくなった。  家族とはいえ、僕には今の距離感がちょうどいい。 「標文(すえふみ)先生も同じ日にも来るんだよね。楽しみだ」  英介は啓の祖父に書道を習っていた時期があったらしい。  啓がまだ両親と暮らしていた頃だから、当時の様子は知らないが、英介が祖父を慕っているのはわかる。 「次に描くものは決まった?」 「すぐには特にないので――課題が欲しいです」 「わかった。できれば叔父にもきいてみたらいい。あの人が見たがるものは難しいけど」  新人の育成にも熱心な北原は、英介の絵だけでなく、啓の絵も画廊に置いてくれている。彼は技術の熟練度より個性や趣向に寄って助言してくれるだろう。 「そういえば、時間がある日に画廊に寄るように言われました。売り買いの話ではなさそうでしたね」  画材を買いに行った時、北原は不在で、愛子から伝言された。 「のろけじゃないか?あの人、すっかり無流さんに夢中だろ。私も無流さんは好きだし、叔父の好みそのものって感じの人だから、気持ちはわかるけどね。愛子も楽しそうで何よりだ」  北原と英介は仲が良い。啓にも絵画指導の際は厳しくなる面があるが、北原とはもっと率直で、遠慮のないやり取りをしている。愛子とも同様だ。 「僕も無流さんは好きです。羨ましいな」 「……二人が?」 「支え合ってる感じがして――僕は、英介さんを全然、支えられないから」  家族とも縁が薄く、友達も少ない。啓は支えてもらうばかりで、自分が誰かを支えることには不慣れだ。 「成長して、いくら世慣れしたところで、誰にでも不得意なことはあるし、知らない方が幸せなことだってある。狭く思える世界でも深く知れば、多くを得られるよ。君が健やかでいることが、僕の心の支えになってる。君や小出くんを指導することで、自分の力を確かめられることも多いし、刺激にも癒しにもなってる。何より、君に見せたくて描いてるようなものだし」 「だと、いいですけど」 「支えたいと思ってくれるだけで充分だ」  食卓の上に置いていた啓の手に、英介の手が優しく包むように重ねられた。
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