五 雑念

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五 雑念

 学内展の話が一段落したところで、英介に残りの紅茶を受けるように促され、ポットにティーカップを寄せる。  英介は空腹だったのか、いつもより焼き菓子を頬張る一口が大きい。 「北原さんは、無流さんみたいな人が好みなんですね」  話を戻してそう言うと、英介はもぐもぐと菓子を咀嚼(そしゃく)しながら頷いた。  徹夜明けだと、素朴な青年らしい隙が見えて面白い。 「うん。見た目だけでも相当好きなはずだよ。ほら、無流さんと顔は似てないけど、君たちの学校に津寺(つじ)先生っているだろ。あの人とかさ。講義も面白いし、津寺先生のことを嫌いな人はいないと思うけど」  家族の話をする時は、英介も和美のような語り口になる。 「あ、日本美術史の――そういえば学校でも楽しそうに話してるの、見掛けました。確かに割とがっしりしてて、爽やかな感じ」  啓が履修するはずの必修科目は来年だと思うが、和美が確か、仏教美術の講義を履修している。「先生がかっこいいし、講義も面白くて好きだ」と言っていた。 「画廊にも昔からよく来てて、叔父に講師の仕事を紹介してくれたのも津寺先生だ」 「特に二人に何かあったわけではないんですか」 「叔父は好きだったと思う。でも、ああいう健康で健全ないい男って大体、早婚で、妻子持ちなんだよね。奥さんも凄くいい人だし。叔父さん、不倫はできない性格なのに、愛妻家に弱いんだろうなぁ。かわいそうだろ」 「あぁ……」  自分好みの人と、自分を好む人が噛み合わないのだ。女性相手はともかく、男運は無いのだろう。 「無流さんも愛妻家で、死別だから離婚もしてないし、和美くんとは年が離れてるから、息子みたいな感じだよね。正に好みのど真ん中だよ。叔父も最初は絶対振られると思って、かなり弱腰だったみたいだ。僕と君くらい年齢差もあるし――気持ちはわかる。うまく行って良かった」 「……え?北原さんって、大正生まれですか」 「無流さんもじゃないか?叔父を君に最初に会わせた日に言っただろ。僕より一回り上だから、三十八だ。無流さんは三十二か三、僕が二十六で、君と和美くんが二十歳」  英介と離れているのは知っていたが、間に無流が入ると思うと、北原は若く見える。無流と北原が並んでいても歳の差は感じない。 「無流さんと英介さんも結構、差があるんだ」 「だから見た目の印象はまあ、個性だ。個人差が大きいよ。かっこいいなと思う人は、年齢関係なくかっこいいと思うし」  英介が片付け始めるのを見て、啓も立ち上がり、食器を盆にまとめる。 「僕も、早く大人っぽくなりたいのに」  英介に続きティーポットだけ台所に運び、啓は、廊下に続く扉と台所の間の狭い壁に寄り掛かって、呟いた。  交際は順調だが、奥手な啓にとって、英介は初恋の相手だ。  啓は、はっきり伝え合う前から好意をあまり隠さずにいた。しかし、いざ恋愛関係になってみると、普通の恋人同士がどういう段階を踏んでいくのか、全然わからない。  師弟関係の倫理をしっかり守ってきた英介の努力もあり、抱き合って口付ける以上の接触はまだだ。自分がそういう行為に及ぶことすら、あまり期待していなかった。  英介の触れ方は心地好く、嫌悪感や違和感はない。徐々に深く、甘くなる口付けに慣れてきたところで、身体が反応し始め、戸惑っている。  ここは自宅と兼用の画室なので、英介の私生活もうかがい知れる。思春期は啓なりに、性的な欲求を抱えて過ごした。  年頃の男が集まる校内では、延々と品の無い話をする輩もいる。業界の傾向として、同性愛や両性愛を隠さない学生も、余所より多いのではないかと思う。男同士での性的な接触についても、耳年増ながら、知識はそれなりに得ている。  それでも、自分が他人の身体とどう関わればいいのかは未知のままだ。 「どうかした?」  戻ってきた英介が、壁にもたれる啓の顔を覗き込んだ。 「今日は指導じゃなくて、個人的な時間にしてもらってもいいですか」 「いいよ。むしろありがたい。夕飯も食べていくなら、早めに家に連絡しないと――大したものは作れないけど」  快諾して、英介は軽く伸びをする。 「この頃お互い忙しかったし、ちょっと……」  啓が言い淀んだ様子を見て、英介は目を細めた。 「甘えたい?」  あっさり見破られて、照れながらも頷く。 「……疲れてますか?」 「描き切って少し、ぼんやりしてるだけだよ」  ふわりと笑んだ顔を、好きだなぁと思う。  英介の腕を引いて、啓から唇を寄せた。  啓から迫るのが珍しいのもあり、英介は驚いたようだったが、ゆっくり身体を抱き寄せ、深い口付けで応えた。  もつれるようにしているうち、英介の背が壁に当たり、ぶつかった腰が密着する。 「――っあ」  下腹部の反応に気付き、思わず腰を引いて、うつむいた。 「大丈夫?啓」  英介は、赤面して黙った啓の髪を指で梳き、耳にかけるように撫でた。 「ごめんなさい、どうしても身体が」 「謝らなくていいけど……僕もちょっとまずいな。徹夜のせいか、自制心が――」  それを聞いて見上げると、英介はいつもより余裕の無い顔で黙った。  恋のきらめきが情熱を含んだ色になり、戸惑いに揺れるのが綺麗だ。 「我慢しないで、してみてほしいです。僕だって弟子になる前から好きだったの、知ってるでしょ。ちゃんと大事にしてくれるってわかってる」  自分も、余裕の無い顔になっているのがわかる。心臓の鼓動がうるさくて、身体の真ん中が苦しい。ため息を逃がしながら、ゆっくり抱き締められ、お互いの熱を確認する。 「そういう想像は、右目では見えないの?」  耳元で小さく、そう問われる。 「英介さんが伝えようと思ってれば、見えると思うけど……僕が雑念で動揺して、ごちゃごちゃしてる時はうまくいかないです」 「僕が隠したいと思ったら見えない?それは、何か卑怯な気がするな。まあ、やたらに人の秘密が見えても、得なことは少ないか」  むしろ、一体どんな想像をしているのか知りたいが、今のところは一部しか見えない。 「僕が知りたいことと合致してれば少しだけ……本だって、広げてあっても、読み取ろうとしないと頭に入らないでしょう。あんな感じで――人の思い浮かべているものに関しては、僕が見たことのないものは、色や光以上の像ははっきり見えないみたいです。脈絡なく空中に急に現れるものなら、知らない種類の生き物を見ることも多いですけど」  それに何より、英介の表情や二人を包むきらめきの方が眩しくて、熱い。 「ああ、抱き締めたりキスしたい時はわかるけど、それ以上はまだしてないから、見えないのか」  それ以上のことも考えていたのに、啓の準備ができるまで自制してくれていたということか。 「そういうことです。考えてるなら、してください」  英介は意を決したように、啓を見つめた。 「怖くなったら、待ってと言って。無理に身体を繋げたりしない」  頷くと、口付けが再開し、また、啓の身体が反応し始める。 「……ん、ん」  英介は啓の下腹部に目をやってから、目を合わせた。 「触ってもいい?大丈夫?」 「いいです。大丈夫ではない――けど」  うわずった声でそう答えた啓に、英介も困ったように笑った。 「はは、僕もだ」  心臓が爆発しそうなのはもちろんだが、他のところも全部、大変だ。  自分でズボンの前を開けるところまではできたが、その先に戸惑う。  自慰する際に見るのと同じ、血を思わせる重く生々しい気が、汗になる前の蒸気と一緒に、纏わりつくようだ。その羞恥と、英介の発する慈愛の色を含んだ温もりが混ざり、熱くなる。  半身を預けるように英介の横顔を見上げながら、肩口にもたれた。  英介のズボンは薄く、紐で結び留める形の楽にはける物だ。啓の下着はすっかり膨らんでいるが、英介の様子はシャツと服の皺で影になり、よく見えない。 「僕も触りたい」  啓がそう言って紐に手をかけると、英介の喉が動いた。 「うん」  紐を引く間に、英介の手で啓の下着が軽く下げられる。 「あ……」  英介のズボンは腿の辺りで下げ止まり、シャツの陰を探ると、英介も啓と同じくらい反応しているのがわかった。 「……ん」  英介はシャツの前を開け、啓は導かれるように素肌の腰に手を進み入れる。自分がされたのに倣って下着を下げ、膨らんだ中身に手を添え、つかんだ。  戸惑う啓の視線に応えるよう、英介は口付けながら身体を引き寄せ、お互いの先端を合わせて握り込む。 「ぁっ」  口付けの合間に、熱い吐息と潤んだ声が漏れる。啓の片手は、英介の動きを補うように根元を行き来し、逆の手で首元にすがり付いた。 「ん……ぁっ」  英介が自制心と闘うように呻くのに煽られ、息が上がる。穏やかな交わりでありながら、きらめきは線香花火の火花のような瞬きに変わり、右目はちかちかと眩んでいる。 「あ、英介さ……」  快感に怯え、両手で英介の首にすがると、熱い息が首にかかり、肌が粟立った。英介の手が粘質な音を立てるのも、自分の鼓動と二人の息でよく聞こえない。平衡感覚を弄ぶ快楽の波が、啓を甘く襲う。 「啓、我慢しなくていい」 「っん――ぁ、あ」  低く囁いた優しい声に、啓が先に絶頂を迎え、英介の手の中に吐精した。  恐る恐る顔を上げた先で、英介の気怠く潤む目を捉えた。 「啓」  絞り出すような英介の手の動きに合わせ、閃光のようなものを知覚し、びくびくと腰が震えた。 「ぁあ、んん、っ」 「ッ……んっ」  先端に啓の精を馴染ませるように、てのひらで撫でると、間もなく英介も苦しげに呻いて、達した。  溶け合うような口付けと、背や腰を撫でる手が、生々しかった空気を甘く溶かしていく。 「啓」 「……ぁ」  切ないような眼差しに、正気の欠片を取り戻し、それ故また赤面する。 「不安が少しは和らいだ?」 「ん、少し……」  いつもと同じ優しい笑みと、信頼感を増しつつも、色気が加わった新たなきらめき。  お互い情けない格好のまま、しばらく抱き合って、甘い余韻を過ごした。
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