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六 夢境
「ご無沙汰してます。お会いできて嬉しいです」
「久し振りだね。元気そうだ」
展示ホールの入口で、高梨英介は坂上標文と久し振りに顔を合わせた。
英介の父親とも親交があるので、付き合いは長い。粋という言葉を見聞きしてすぐ浮かぶのは、彼の姿だ。
七十代にしては背が高く姿勢もいいが、不思議と威圧感はない。書道家らしい味のある草木染めの紬を風流に着こなし、足運びは若々しい。
大胆で力強い作品が多い割に、本人の印象は知的で穏やかだが、筋の通った潔さや美意識の強さはうかがえる。
啓も標文や両親と一緒だと思っていたが、姿が見えない。
英介の様子で察したのか、標文は目を合わせ、軽く頷いた。
「息子たちはひと回りして帰った。啓は小出くんを連れて戻るそうだ。できれば油彩のホールに居てくれと言われた。せっかくだから、解説を頼んでもいいだろうか」
「喜んで。ご一緒します」
学生たちの作品を眺め、標文の質問に答えながら進んでいくと、啓たちの絵の前に差しかかった。
自然と歩みを止め、前後を人が通れる位置から眺める。
啓が言っていた通り、まだ伸ばすべき表現法はあるだろう。それでも、立ち止まる人の数は展覧会の度に着実に増えている。
「あの子が見ている景色が、ここまではっきり伝わるようになって、嬉しい限りだな」
「僕もです」
興味深そうに啓の絵を眺める横顔は、本当に嬉しそうだ。
「最近、眼帯を外すようになったが――見え方は変わっていないのかな」
「徐々に仕組みはわかってきたようですね。まあ、生物学的にどの程度実証できるのかはわかりませんし、予想や仮定に過ぎませんが」
標文が孫の見ているものと言うことを信じ、才能を伸ばそうとしたおかげで、今の啓がある。
情報を整理し、医者や周りの大人にうまく説明できるようになったのも、彼の観察眼や、分析力によるところが大きい。
啓が徐々に前向きになっていることで、親子関係も良くなったようだ。
「自分が見たことがない物が見えるというのが、ちょっとわかりにくいようだな。見た物の組み合わせで再構成されているのでなければ、何かがそのまま見えているんだろうが、何故それが見えるのかがわからない」
啓が言うには、立体的に極彩色の映像が投影されているようだという。光源はバラバラで、他の景色からは分離している。頭の上を魚が泳いだり、鳥が飛んで来たりするらしい。
「デッサンが上達した頃に、見えている物を描いてもらったことがあります。全部はわかりませんでしたが、実在する物のようです。空想の物ではなかった。小さい頃にどこかで見た記憶なのかもしれません」
英介の言葉に、標文はしばらく考え込んだが、答えは出ないようだ。
「生き物も植物も人並みに興味はあったようだが、自然の中でそういった経験ができる状態ではなかったな」
「じゃあ、何か別のものを受信してるのかな」
「人と重なる思考が見えるというのは、わかる。同時に同じ言葉や物を思い付くことは誰といてもあるし、歓声なんかもそうだ。君も、少し前に話していた話題にあったことを同時に思い出したり、誰かが思い出そうとしていることが何となくわかったりするだろう。その場合、ほとんどは経験則によるが」
英介はこの間、啓と触れ合った時のやり取りを思い出し、すぐにかき消した。もう、あの時した事を思い浮かべてしまったら、啓にもはっきり見えてしまう。標文の前でそれはさすがに気まずい。
「僕もそれはわかります。ただ、事件の際は――猫の伝えたいことがわかったり、熱を出して眠っている時、小出くんと同調して、視界を共有したと言うんです。その時は、ところどころ見えない部分があったことで、知らないことは見えないのだと解釈していました」
「小さい頃にもそういうことは、あったのかもしれないな。本人が夢で見たことなのか、何なのかわからなかっただけで――親はそれがお告げや千里眼のようで、恐ろしかったみたいだ。要因は、熱か、夢か、それとも――誰か他の……その夢の話なら、彼の方が特殊なのかもしれない」
「彼?小出くんですか」
標文の分析はいつも、英介より可能性の範囲が広い。三毛猫の要求まで受信したのだ。啓だけが特殊だという前提を捨てれば、確かに小出の側にも何らかの特殊な意思疎通の能力があってもおかしくないだろう。
「啓が受信する能力が強いのなら、小出くんは発信する能力が強いという可能性はある。その猫もね。そうでないなら、一時的なことだったり、偶然そういう条件が揃った。はっきり知覚できるのが珍しいだけで、世間一般にも同じことが無意識に起こっているのかもしれない。彼だけでなく、君や飯田くんなんかと仲がいいのも、そういう共鳴が先にあったからかも。君たち三人の作風に似たところが多いのも、それなら納得がいく」
「作風は、観察の要点を同じ人間が教えれば、近い結果になるというのもあります」
「そうだな。でも、もし小出くんにもそういう力があるとしたら?他にもたくさん発信者がいる可能性も拡がる」
わからないまま受け入れざるを得ない本人には余計なことかもしれないが、もし因果関係がわかれば、何かに役立つこともあるだろう。
「戦時中に侵攻した大陸や、太平洋諸島、日本の離島から復員した人たちの見た記憶かもしれませんね――だとすると、戦争の記憶をあまり見ないのは辻褄が合わないか」
「戦闘をあまり経験しなかったからこそ復員できたのだとしたら、有り得ない話ではない。啓が見たいと思っていて、誰かが伝えたいと思っていることだけだけ見えるという条件が、そこでも生きているのかもしれない。光の粒子が見えると言っているのも、人混みでは相殺される部分の方が大きいらしい。他にも見えているが、珍しいものだけに照準が合うのかもな」
「人以外に、人間より長く生きる動物とか、遠くから飛んできた鳥と波長が合うとか?」
「それはいいね。あるいは、通学路やうちの近所なら、他にも芸術家は住んでいるだろうし、学者も住んでいるはずだ。紙に描いた図が空中を舞うわけでないなら、人工物を含まない自然物を、実際に見た記憶でないといけないのかな。生命活動がないといけないとか」
「ああ――なるほど。本人が気になるようなら、今度、実験してみましょうか。熱が原因の場合、ちょっと難しいですが」
「とにかく、無意識に受信できる人間がいるなら、発信する人間がいてもおかしくないという話だよ。本当にそうなのかは別として」
「そうですね」
「夢というのもね。手洗いに行く夢を見て、寝小便した経験は誰しもある。夢見が悪い日というのも、他人同士でもある程度重なる。気候の影響や不快感、寝ている間に通常時より解放されている視覚、聴覚、嗅覚、触覚――人間同士以外の環境の影響で、細かい何かに反射的に喚起される反応が夢に出たり、その日に経験した出来事を反芻して学習したり――仕組みがわからないから不思議だが、起こり得ると認知されていることは、まだまだ多い」
標文は不思議なことを特別視せず、仕組みがわからないから不思議だと思うが、何事にも原因と結果があるという人なのだ。それが、いつ判明するかどうかは別として。
英介は単に現実主義で、有り得ないことを探して可能性を消去していく方だ。啓を信じる気になったのは、啓が嘘をつかないという前提があったからで、他の人間だったら、同じように向き合えていたかはわからない。
幻覚の類は、病気が原因のこともあるだろう。啓の両親も最初はそれを疑っていた。現実的には、超能力のほとんどがペテンだから、有り得ないとする方が簡単だ。だが今後は、啓以外にも標文と同じ考え方ができる気がした。
少なくとも、嘘をついている場合と、嘘をついていない場合の両方を考える意識はできる。
「お祖父さま、先生」
「すみません。お待たせしました」
小出と啓がやってきて、そう声を掛けられた。
「ちょうど君たちの絵を見ている」
英介がそう言うと、啓は神妙な顔をする。
「いつものことだけど、毎回緊張します」
「僕もです」
心なしか標文の方に少し寄った啓たちに、標文は優しく笑いかけた。
「私は絵に関しては素人だが、和美くんの絵も面白いし、二人とも北原さんが目を付けるだけある。去年よりずっといい」
「ありがとうございます」
啓と小出の声が揃ったところで、英介と標文はさっきまでの会話を裏付けられたような心地になり、思わず目を合わせた。
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