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香りのイメージは、遠い昔の記憶
デジタルデトックスなんて絵空事だ。SNS中毒者は世界と一瞬たりとも繋がりを断ち切ることはできない。
機内食を食べながら無意識にiPhoneをいじる。
SNSを眺めると、いつものようにアンチコメントの嵐だ。
ファンアートと思しき絵や写真にも悪意に満ちた言葉が添えられてある。
そんなものを目にすると、彼女は少しだけ安心した。
自分がここにいるということを実感できるからだ。
彼女は孤独だった。
それはもうずっと前からわかっていたことだ。
だから、誰にも負けないくらい強くありたかったし、誰よりも優しくあろうとした。
誰かのために自分を捧げられるような人間でありたいと思った。
だが、どうだろう。いま、自分は何をしているのだろうか。
彼女は反射的に編集ページを開いた。呼吸するように言葉を紡ぎ、吐く。
デビュー前から連載しているブログがあった。コメント欄を閉鎖して思いの丈をつづる。
自分は今、何をしているのか。何の目的でどこへ行こうとしているのか。
チケットを見ればわかる。
南フランスのグラース。エナント酸のにおい、というか自分をドル箱のように扱うプロモーターの胡散臭さから逃れるために大枚をはたいた。
執筆の動機を再確認してフリック入力をはじめる。
私は今、何をしているのだろう。
ライブ前の高揚感。
その舞台袖では、スタッフが忙しく駆け回り、機材の調整を行っている。
彼女もまた、スタッフとともに慌ただしい時間を過ごしている。
この瞬間、彼女は間違いなくアーティストであった。
メイクアップアーティストの手が止まる。
その時、何とも甘い香りが緊張を解きほぐしてくれた。
「ねぇ、これ何のアロマ?」
「ラベンダー・トゥルー。ハーバル調の甘い香りで南フランス産だそうです。ヘアスタイリストさんが焚いてるの。公正っていう意味ですって」
彼女の一言に閃きを得た。
「そっか、南フランスか。あたしもいつか、いや、近いうちにきっと行く」
その言葉を聞いて、メイクさんは微笑んだ。
「もやもやが吹き飛びましたか? ヘアスタイリストさんの受け売りだけど」
「ええ。ありがとう」
再び鏡の前に座ったとき、ガレライルは既にアーティストとしてのスイッチが入っていた。
会場を埋め尽くす観客は、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のようだ。
ステージの上に立つ彼女を一目見ようと必死になっている。
彼女がマイクスタンドに口を寄せたとき、自然と歌詞が出た。
「真実、真実って何。遠い昔からずっとそこにあるもの。かわらない思い出」
飛行機を降りるとまっすぐに村へ向かった。ここは南フランスのグラース。香りのメッカと呼ばれている場所。
彼女は修道院へ向かった。そこでは独自のハーブ園と昔ながらの製法を守っているという。そこは、歴史を感じさせる建物で、古めかしいながらもどこか洗練されたデザインをしていた。
受付の女性は、彼女に丁寧にあいさつをした。
ハーブティーを飲み終えるまで、しばらく待たされた。
部屋を出ると、小さな庭に出た。
そこには、見たこともないような花が咲き乱れていた。
修道女は言った。
香りのイメージは、遠い昔の記憶を呼び起こすことですから、ある瞬間にひらめいたイマジネーションを大切にしたいものです。それはちょうど古いアルバムを開いて子供の頃の出来事を思い浮かべるのと同じ感覚かもしれません。思い出の中に閉じこめられていて、今は忘れてしまっているものの中にこそ、「香りのあるべき姿」「心の中にあるべきものの形」が眠っているはずです。
ガレライルはレパートリーの一つを唄って聞かせた。
誰もが幼い頃にわがままを言って困らせた♪
しかし、自分が逆の立場になったとき、許しを請い、許そうと思う♪
その理解を与えてくれたのは、ああ、連綿とつながる母の愛なのだ♪
そして、顔を曇らせる。
「あたしはMAMAを抜けたんです。自分を育ててくれた母体を…」
「でも貴女は親離れしたかったんでしょ?」
修道女は見ぬいてしまう。
あなた自身がまだ幼いときに感じたこと、見たものや聞いたことのなかにも、きっとヒントになるものは含まれているでしょう。たとえば幼い頃のあなたの心の琴線に触れた音楽、絵画や物語。それらを思い出すときの喜びとともにイメージを広げることができるなら、それが一番いい方法でしょう。
そう述べると、ガレライルを別室に誘った。そこではまたリラックスできる香りが心の視野を広げてくれた。
「香りというのは不思議ですね!」
同じ花の香りといってもそれぞれに少しずつ違う印象を持っているんです。
これは人の心にも同じことがいえて一人として全く同じような匂いを持つ人はいないんですよ。
恋とセルジュルタンスと秋の空
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