1人が本棚に入れています
本棚に追加
「沙織と毎日、映画とか小説の話をずっとしていられたあの頃が、1番楽しかった。沙織の書いた小説の最初の読者は私だったし、演劇部の公演のあとは誰より沙織の感想が聞きたかった。どんなに進み続けても一人じゃなかったし、女優になりたいって言い続けることが全く怖くなかった。全部が新しくて全部がキラキラしてた。」
一言一言、噛み締めるように言葉が重ねられていく。
明日香の震える声は次第にかすれていき、握り閉めた手には爪がくい込み跡がついている。
「ねぇ、沙織、私を置いて大人にならないでよ」
濡れた黒い瞳が沙織を捉える。
そうか、開いてしまった距離を悲しんでいたのは同じじゃないか。
あの頃に戻りたい。
でも、戻ることは出来ない。
明日香は進み続け、沙織は立ち止まった。
「何言ってんのさ。明日香の方がずっと先にいるよ、置いていかれたのは私でしょ。」
明日香はゆっくりと首を振る。
「諦めることも、進むことだよ。」
私は『諦めた』のか。
だとしたら、どうしてこんなに苦しくて息が詰まるのだろうか。
どうして明日香に会って劣等感でいっぱいになるのだろうか。
どうして明日香に会いに来たのだろうか。
「私も、あの頃が1番楽しかったし戻りたいよ。あの頃、小説を書くのが当たり前で、何万字とかあるやつ平気で明日香に読ませて、よく考えるとやばいけど、何より明日香の感想が聞きたかった。明日香が出てる舞台を見たら、いてもたってもいられなくて、話したくて書きたくて仕方なくなった。私も、明日香と同じだよ。」
明日香が懐かしむように濡れた目を細め「ふふっ」と笑った。
「今考えるとやばいね。平気で、『さぁ今日中に読め』って。」
「うん、やばい」
ゆっくりと2人の間にあった見えないものが溶けていく。
たぶんどんなにあの頃が大切でも、戻ることは出来ない。
ひとつひとつ歳を重ねる度に新しいものが減って、キラキラしたもので溢れる毎日からは遠ざかっていく。
だから、私たちは進み続けなきゃいけない。
あの頃と同じように過ごしても、あの頃には戻れない。
「ねぇ沙織、」
静かで優しい、でも真っ直ぐ芯の通った昔から変わらない明日香の声だ。
「また沙織の小説が読みたいな」
ただ一言だった。
すっと灯った光が、心の奥の方に染み込んで新しいエネルギーになる。動き出さずにはいられないこのまま留まっていては溢れてしまう。
「そんなこと言うと平気で5万字くらい読んでもらうよ」
「よく言うよ。昔は、普通に読ませてたでしょ。」
笑い声が重なって、あの頃の時間がすぐ近くに感じられる。
「ねぇ、明日香。私まだ、諦めたくないって思うよ。」
「うん」
静かに息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
「私、書くから」
最初のコメントを投稿しよう!