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そしてあなたに心を捧げた
あの年はじめのひと騒動から、少しばかり時が流れた。
あのひと騒動の時は寒い寒いと言っていたのに、今はすっかりと春爛漫で、吉原にすら桜の花びらが舞い落ちている。
貴族院の方々と揉めたのだろうか、あれ以降から鬼龍院さんの悪評を聞かなくなった。
どうも男衆の人たち曰く「海外に拠点を移して吉原から撤退した」らしい。
この世界だと歴史の通りだったら海外でも結構大変だけれど、あの人はたくましいから、日本で悪さをするよりはのびのびと商売ができるんじゃないかなと思っている……正直、登紀子にさんざん文句を言われて私の胃壁を削るくらいならば、よそで元気に悪さをしてくれていたほうがまだマシなような気がする……多分。
服部さんは一度お茶屋で出会って以降お見掛けしてないけれど、あの人の本職は探偵だし、仕事でもなかったらここまで来ないだろう。ここに来ないってことは、少なくとも私との感情値は上がらなかったみたいだし、多分なんとかなったんだろう。
佐久間さんは相変わらず新刊が本屋で出回り、ときどき孝雄にお使いを頼んでは買ってきてもらっている。定期的に本が出るということは、いわゆる流行作家にちゃんとなれたのだろう。この人とは多分もう会うこともないだろうけれど、元気で小説を書いていて欲しいと願っている。
さて、『華族ロマネスク』の攻略対象たちのその後はさておいて。
しおんはいい旦那を見つけて、少しずつ置屋から独立の道を模索しはじめている。
元々彼女は芸で身を助けたい性分だし、たとえ芸妓を辞めたとしても楽器を続けられる道を探すのだろう。
そして孝雄とはなんだかんだでいい感じになっている。
もし年季が明けて、置屋から独立して芸妓を務められるようになれば、彼女も堂々と孝雄との仲を宣言できるだろうし、幸せになればいいなと私は思っている。
私はというと、まだ年季が明けておらず、毎日のように稽古と座敷での仕事で大わらわな毎日を送っている。
楽器だって小鼓しか叩けない、舞も唄もお金を取れるレベルのものじゃない私は、唯一の稼ぎ口は前世でのキャバクラ勤めで培った接客とお酌くらいのものだけれど、少しずつ借金を返済して、年季より早めに完済できそうな見通しになってきている。
幸哉さんとは、相変わらずご飯食べの名目で逢引を許されてはいるものの、まだなかなか先には進めていない。
……いや、そもそも。
私は年季が明けたとき、この人と一緒になっても大丈夫なんだろうかと、そこを気にしている。
幸哉さんは既に早乙女家を出ているし、そもそも次男坊だから家督のことは気にしなくってもいいんだろうけれど、吉原で女を買ってきたっていう醜聞が付いて回るのは、この人の仕事的に大丈夫なんだろうかと心配になる。
その日はおいしい蕎麦屋さんで花見をしながら一緒にお蕎麦を食べようと誘われ、桜が風でたなびくのを眺めながら蕎麦をいただき、ふとそんなことを考えている中。
「登紀子さん?」
そう声をかけられてはっとした。
幸哉さんが心配そうな顔をして、こちらを見ていた。
「箸が進んでないようですが……今日は体の具合が悪かったですか?」
「……いいえ。桜を見ていたら、気付けば季節が移り替わっているものですねと、少しだけ黄昏ていました。私たちの関係も、まだなにも変わっていないんですけどね」
「そういえば……登紀子さんももうすぐ借金が完済できそうなんでしたか」
「……はい。幸哉さんのおかげで、年季が明ける前には、どうにか完済のめどが立ちそうです」
「そうでしたね。本当でしたら、あなたをすぐに身請けすればよかったのかもしれませんが、あの座敷での啖呵を見て、迷ってしまいました」
啖呵……どれのことだろう。
鬼龍院さんに言った言葉をあれこれと考えていたら、幸哉さんが続けた。
「……僕は、あなたの好きなものを取り上げたくないんです。初めてお会いしたとき、あなたはなにもかもを諦めきった顔をしていた。失礼ながら、意思のない人形のようで、触ったら途端に壊れてしまいそうでおそろしかったんです」
それに私はドキリとした。
登紀子の見目だけを気にしている人たちは、彼女の美貌だけを褒めちぎるものの、あれを「人形のようで怖い」と評したのは彼だけだ。
どうして登紀子が幸哉さんといるときだけ起きてきて反応するのかが、なんとなくわかる。
そう思いながら、彼の言葉に耳を傾けた。
「あなたは好きなものと共に過ごすときだけは、感情を露わにし、楽しそうにしていました。でもあなたの本質をわかっている方は少なく、あなたを物のように扱うばかりで、あなたがなにを好きか、なにを嫌いかまで全く考慮せずに接します。あなたが座敷にいた傷ついた芸妓の方々を労り、彼女たちを庇い、鬼龍院様に抵抗した様を見たとき、僕はあなたから座敷を取り上げることは、果たしていいことかどうか、迷ってしまったんです。あなたがもしつらい、苦しい、早く出たいとおっしゃるのならば、すぐ身請けする用意はできましたが、あなたがあまりにも楽しそうにして、そこでできた友人や知人と暮らしているのに、僕の気持ちを押し付けてあなたを連れ去ってしまったら、あなたを人形として扱っていた方々と、いったいなにが違うんですか?」
その言葉に、私は少しだけ目尻が熱くなり、涙が頬を伝うのに気付いた。
私だけでなく、登紀子もまた一緒に泣いている。
それに慌てたように幸哉さんがうろたえてハンカチを取り出した。
「も、申し訳ありません……っ、あなたを苦しませるつもりは」
「いいえ、いいえ、幸哉さん。私は本当に嬉しいんです」
この言葉は、私たち前世と現世ふたりの意見だ。
「私にとって、幸せはどこか遠くのものでした。私のものではありませんでした。だから眺めていました。私の上で起こったことすらも、全て他人事だと思っていたら、耐えられるから。でも、あなただけが、私の中に来て、私の真意を探ってくれましたね? それが嬉しいんです」
迷惑にならないだろうか。困らせないだろうか。そう思っていても、この人はずっと振り返って辛抱強く待ってくれた。
この人ならば、大丈夫だろうか。そう思案し、信じることができた。
「もしどうしようもなかったら、私は逃げるつもりでしたけど、あなたは私の逃げ場所になってくれた。だから、これ以上逃げるのはもう止めようと思うんです」
「……それでは」
「あなたが望んでくれたなら、私はいつでも、あなたのお傍に行きます。あなたが好きです」
その言葉を伝えた途端に、幸哉さんは目を大きく見開いたあとに、蕩けるような甘い笑みを浮かべて、私の手を取った。
「……あなたのこと、誰にも邪魔はさせませんから。任せてください」
「はい」
このひと言で、私は強くなれるような気がした。
****
幸せな婚約者たちが、実家の都合が原因で婚約破棄を迫られ、ふたりは離れ離れになった。
女は売り飛ばされ、男は慌てて彼女を探し出して連れ戻し、今度こそふたりは幸せになった。
女性に好まれそうな筋書き。甘い甘い物語。
実際はそこまで甘いものでもなかったけれど、今が幸せならば、もうそれで充分だ。
この誠実な人と、これからもいつまでも、一緒にいられたらそれでいい。
もう、バッドエンドは必要ない。
<了>
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