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2. 指輪と婚姻届
ひっくり返ったりんごのケーキにりんごのババロア、りんごのゼリー。それから栗クリームが渦巻いているモンブランに、チョコレートケーキ。
トーゴさんは今日は何だかずいぶん張り切っているようで、いつもよりケーキの種類も多いし、一ミリの隙もないほど綺麗に並べられています。その理由もわたくしは知っているのですけれど。
何はともあれ、ショーケースにはたくさんの美しいケーキが並んでいますが、やっぱり一等目を惹くのは、つやつやで整った編み目のアップルパイ。特訓のかいあって、均等に整った編み目は定規で線を引いたみたいにぴしっと並んでいるのです。
「うつくしいですね」
「お褒めに預かり光栄だ。そんなところに座ってないで、日向ぼっこでもしてきたらどうだ? 今日はいい天気だぞ」
そうなのです。このところ雨模様が続いておりましたが、今日はぴっかぴかの晴れの日。うろこ雲もどこへやら、雲一つない、目に染みるほどの青い空が高く広がっています。
けれど、今日は九月の最初の土曜日。わたくしにとっては特別な日なのです。
「やっほー」
ほらいらっしゃいました。肩までの綺麗な髪に、一房だけ鮮やかな赤い色が混じるその方は、今日の秋晴れの空のように明るい笑顔でお店にとびこんでいらっしゃいました。
「あらりんちゃん、今日も可愛いね」
「秋乃さんも、いつも通りおうつくしいですね」
そう答えながらもわたくしは少しだけ首を傾げました。いつも、太陽のように暖かく輝かしい笑顔の秋乃さんの表情に、ほんの少しだけ曇り空のような翳りを感じて。
「あ、今日はずいぶんたくさんあるね」
秋乃さんは嬉しそうにショーケースを覗き込みます。迷うように顎に触れた左手を見て、わたくしはそのいわかんの正体に気づいたのです。
「秋乃さん、あの綺麗な指輪はどうしたのですか?」
ずっと秋乃さんの薬指には銀色の、真ん中に小さいけれどとても綺麗な石のついた指輪が嵌められていました。わたくしはそれを見るのが大好きだったのですが、今日は空っぽなのです。
「ああ、もうあれは必要がなくなったの」
そう言って、秋乃さんはどこからともなくひらひらと紙を取り出しました。上の方が茶色の、何やら文字がびっしりと書かれているそこに、秋乃さんのお名前が書かれていることだけは確認できました。
それを見せびらかすようにして、じいっとトーゴさんを見つめる秋乃さんの表情は、やっぱりいつものお日様のような笑顔とは、少し違って見えました。
トーゴさんはたっぷり三十秒ほどはその紙を見つめて、それから別に、みたいな顔で口を開きました。
「決まったのか」
「そんな自然発生みたいな感じじゃないわ。決めたの」
「そうか。いいんじゃないか。もう三年だ。兄貴も喜ぶだろうよ」
そう言ってニッと笑った髭の生えた頬の動きは、いつもよりちょっと不自然でした。何しろわたくしはトーゴさんを観察することにかけては、七年の経験があるのです。
わたくしもじいっとその横顔を見つめてみましたが、こうと決めたら頑固なのはトーゴさんの悪い癖です。どうして悪いって決めつけるかですって? だって、秋乃さんの顔を見ればもういちもくりょうぜんなのです。
「……桐梧は?」
女心と秋の空、とは申しますが移り気に思えるのは、心の内側を知らないからです。そして、たぶんトーゴさんはわかってやっているのでたちがわるい、のです。
「おめでとう、義姉さん卒業だな」
もう一度、今度は何だかとても意地悪そうに、けれども明るく笑って言われたその言葉に、秋乃さんはちょっとだけ固まって、何だかすごい形相になって、でもやっぱりちょっとだけ悲しそうになって、それから急に、ああもうっと叫びました。
「あーもうあーもう、あんたなんか大嫌い‼︎」
「嫌いで結構。今日はこれでいいか?」
気がつけば、箱に綺麗に三つのカットケーキが詰め込まれています。とびきり上手にできたアップルパイが二つに、タルト・タタンが一つ。
「三つということは、お客様ですか?」
「違う、こいつが二つ、残り一つが相方用」
「——そういう全部わかったみたいなところも大っ嫌い‼︎」
はいはい、といなしながら、カウンターから出てきたトーゴさんは、白いその小さな箱をそっと秋乃さんに手渡します。そうして、両手が塞がった秋乃さんの顎をすいと持ち上げると、不意に二人の顔が近づいて、すぐに離れました。
ざり、と無精な髭が秋乃さんの滑らかな頬に触れる音が、聞こえた気がしました。
唖然としたままの秋乃さんの背を押して、それじゃあお幸せに、ととびきりの笑顔でお店から押し出すと、トーゴさんは内側から鍵をかけて、 ガラスの扉のこちら側に下がっていた看板を CLOSED に変えてしまいました。
それからスタスタと店の奥の扉を通って裏庭の、わたくしの根元に座り込みます。
ゆらりと煙が立ち上ってきて、ちょっとくさいな、と思いましたが、何しろわたくしは齢七年の一人前のりんごの木の精霊ですから、今日ばかりは許して差し上げることにしたのでした。
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