1. うろこ雲

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1. うろこ雲

 皆さん、うろこ雲ってご存知ですか? ええあの空に浮かぶ魚の鱗に似た雲です。 「お前、魚なんて見たことあるのか?」  馬鹿にしたようにおっしゃるのはこの店のご主人のトーゴさんです。ご職業は菓子職人、今風におしゃれに言うとパティシエとかいうのでしたっけ。 「今風って何だよ。普通だろうが」 「トーゴさん、人の心を読むのはやめてください。ぷらいばしーのしんがいですよ」 「何言ってんだ。口からだだ漏れているだけじゃねえか」  ヘッと意地悪に笑って言う横顔には、まばらに髭が生えています。無精髭、というのだと常連のお客様が教えてくださいました。パティシエというのは清潔を旨として、ピシッとしてらっしゃるはずなのに、ちょっと伸びたぼさっとした髪といい、その髭といい、パティシエの風上にも置けません。 「だからお前が何を知ってるんだっての。庭から一歩だって出たこともないくせに」 「お庭から出たことがなくたって、鳥さんたちはたくさんお話を聞かせてくださいますし、何しろわたくしはえいちの実を宿す神秘の果樹ですから」 「自分で神秘とか言ってるんじゃねえよ。あ、二、三個もらうぞ」  呆れたように言ってから、トーゴさんは裏口から庭へとスタスタ出ていきます。わたくしは、少し考えてから、ふわりと意識を元の場所へと戻します。  すると、じぃっとを見つめるトーゴさんと目が合いました。緑の葉が綺麗に生い茂るわたくしの中には、いくつものつやつやとした赤い実が生っています。今年初めて実がなったわたくしは、こうして晴れて一人前のりんごの木になったのです。  桃栗三年柿八年。大体りんごの果樹は三年ほどで最初の実をつけるのだそうですが、わたくしの場合、こののんびりした性格のせいか、実が生るまでなんと七年もかかってしまいました。  とはいえ、この菓子店の裏庭に、トーゴさんが適当にりんごの種を埋めて以来、彼は一切世話というものをしなかったのですから、こうして実が生ったのはほとんど奇跡みたいなものなのです。  なのに、トーゴさんときたら我が物顔でもいでいくのですから、なんだかこうもやっとするのもやむないとはお思いになりませんか? 「だから、誰に話してんだよ?」 「聞いてくれるどなたかにです。聞こえているならトーゴさんだってもう少しこう感謝の意などをお示しになっても良いと思うのですが」 「感謝の気持ちを込めて美味しく料理してやってるだろうが」  あまりに乱雑な物言いに、ぷうっと頬を膨らませてやりますと、トーゴさんはやれやれとため息をつきながらも、わたくしの方に両手を伸ばしてきました。そうして抱き上げて、機嫌を取る魂胆なのです。  もうりんごとしては一人前のわたくしですが、人の姿をとると、なぜか幼な子の姿になってしまいます。ふわふわの茶色い髪に、みずみずしい葉っぱのような緑の瞳、と鳥さんたちは評してくださいます。なかなか可愛いとも。  そのサイズ感のせいか、もう一人前なのだと何度申しても、トーゴさんはいつもこうして子供扱いをなさるのです。あいにく、わたくしとしても、この腕の中が心地よいのでついつい絆されてしまうのが悔しいところではありますが。  ともあれ、その腕に収まって抱き上げられると、空が近く感じられました。  見上げたそこには、小さく千切れたような雲が一面に広がっています。 「うろこ雲がどうしたって?」 「うろこ雲が出ると三日後に雨が降るのだそうです。だから、もう熟した実は今日明日中にもいでしまった方がいいって」 「そうか」  じいっと赤い実を眺めながら何かを考え込むその顔は、いつもよりちょっと男前に見えました。 「これだけあるなら、タルトタタン、アップルクランブルに、それからりんごのコンポートに、りんごゼリー……」 「アップルパイがいいです」  断固たる口調で申し上げたわたくしに、トーゴさんが少し驚いたようにこちらに視線を向けてきました。 「アップルパイ?」 「周りを三つ編みの生地で囲んで、真ん中の編み目は均等に。ぴしっと綺麗に仕上げてくださいね」 「何でアップルパイ?」 「だってわたくしはこんなにつやつやなんですから」 「だから?」 「つやつやのアップルパイというものになってみたいのです」  トーゴさんのお作りになるアップルパイは、実のところいつも編み目がうろこ雲のように不揃いです。手先は器用なはずなのに、あの編み目の酷さはパティシエとしてはちめいてき、です。  なので、今日はわたくしが隣について特訓をして差し上げる目論見なのでした。そうして出来上がった綺麗なアップルパイをいつもくる常連さんのあの方にお見せするのです。そうしたらきっとあの人だって——。  あの方の蕩けるような優しい笑顔を思い浮かべていたわたくしに、トーゴさんが怪訝そうな眼差しを向けてきます。おっと、ついつい顔が緩んでしまっていたようです。   「変なやつ。まあお前が変なのはいつものことだけど……っ痛ッ!」  これでも齢七年を経たりんごの木の精霊ですから、失礼な物言いをするご主人さまにりんごの実を直撃させることくらいはあさめしまえ、なのです。
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