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第一話 売れなきゃ始まらない
(一)
バックします。バックします――。
天井の高いホールにSF映画を思わせる機械的な女性の声が鳴り響き、淡いブルーの作業着を着た男たちが、「オーライオーライ」と大声を上げて誘導していた。
サイドパネルに、ちっとも速そうには見えない鳥のイラストが描かれた宮城ナンバーの四トントラックが、バックライトを点滅させながらゆっくりと迫って来た。
川瀬という名の仏頂面の若い男が一際響く声で、「ストップ」と叫ぶと、トラックは前後に一度大きく揺れてから後進を止め、同時に女の声も止んだ。
松藤智行が立っているコンクリートの岸壁は、地上高90センチほどで、ギリギリまで近付けて接岸したトラックの荷台とほぼ地続きになっていた。
智行はリヤドアのロックを外して、両開きのドアを勢いよく開けた。
そこには、カゴ車と呼ばれる滑車のついた深緑色のロールボックスパレットが、左右に二列ずつ薄暗いコンテナの奥までぎっしりと並んでいる。
先にコンテナの荷室に入った川瀬が、カゴ車の鉄柵を固定していたラッシングベルトを外し、同時に爪先で器用にタイヤロックを解除して、智行の方に押し出した。
智行は出てきたカゴ車を受け取ると、そのままフロアを横切るベルトコンベア脇まで運んで行った。
全国から発送された荷物の内、都心部と江東区、江戸川区などの城東地区宛の荷物がここ『ハヤブサ便・城東集荷センター』に運ばれて来る。
そして配達地域ごとに更に細かく仕分し、配達の小型トラックに乗せ換える。また一方で、都心部で集荷された荷物もまた、この集荷センターを経由して地方へと運ばれて行く。
カゴ車には大きさの異なるサイズのダンボールが、まるでテトリスのようなバランスで重ねられていた。
上部には一段だけ仕切り棚があり、その上には小荷物の入ったカゴが二つ置かれている。
智行はまず始めに、上段に積まれた〈天地無用〉シール付きのカゴを降ろすと、中の荷物を慎重にベルトコンベアへ載せていった。
積荷にはすべて保険が適用されるとは言うもののアルバイトの身分で〝破損品〟を出せば社員から露骨に嫌な顔をされるからだ。
コンビを組む川瀬はそれらの荷物一つ一つにバーコードリーダーを押し当てながら、同時に四方を確認し、破損がないか調べている。その内、数分前まで空だったベルトコンベアの上が瞬く間に荷物で溢れた。
トラックの運転席から、クリップボードを手にした男が降りて来るのが見えた。
「こっちはちゃんとバックモニター見てんだからよ、いちいちぎゃあぎゃあ喚かなくていいんだよ、アホどもが――」
その聞こえよがしな悪態は、隣でテキパキと作業している川瀬の耳にも当然届いている筈だが、当の本人はまるで気にする様子もなく、相変わらずの仏頂面のまま目の前の作業だけに集中しているように見えた。
時折、冷たい風がホールを吹き抜けて、智行は思わず身震いする。
まだ十一月だと言うのに、今日は午後になっても気温があがらず、まさしく異常気象を思わせる寒さだった。
特に夕方になってからの冷え込みは真冬に等しい。
「しかし寒いね。……きついね」
智行は荷物を運ぶ手は休めずに、川瀬にそう話しかけた。
最低限のコミュニケーションだ。
川瀬もまた、荷物から目を離すことなく頷いた。
「寒いっすね。きついっすね」
作業ホールは幹線道路に面した表側に集荷用トラックが、運河に面した裏側に出荷用のトラックが接岸する必要上、常にシャッターが開け放たれた状態にある。その為、冬場には東京湾からの冷えきった風が容赦なく吹き付け、逃げ場のない作業員たちを身体の芯から凍えさせる。
「さあてと、頑張って仕分けしようかね。しかしほんとに寒いなあ。……さみい、さみい、サミーデイビスジュニアってか――」
そんなくだらない駄洒落を口にしたものの、実際そこに笑顔はなく、智行は受刑者のような諦めの心境で作業を始めた。
◇
「お疲れさん――」
管理事務所の奥にある休憩室兼更衣室で、着替えを済ませて出てきた智行に、古ぼけたテレビから目を離すことなく声をかけたのは、夜勤管理担当の吉田稔だった。
白髪の目立つ五十過ぎの男で、肩書は副センター長。脂気のない頭髪は寝癖のように毛羽立っていて、それほど太ってはいないのに腹だけが異様に突き出ていた。
吉田は今春、前任センター長が業務上横領で懲戒解雇となった為、ハヤブサ便の親会社である『中部日本運輸株式会社』の事業開発部から、急遽センター長代行としてやって来た。
当初は無事故奨励運動、労働環境改善などと張り切っていたが、夏前に十歳下の新センター長が赴任し、同時に肩書が副センター長に降格して以来、目に見えてやる気をなくし、最近では他の従業員に悪影響を及ぼすほど不貞腐れている。
本社勤務時代は万年係長止まりで出世とは無縁の人生だったと、今度こそ勝ち組になるのだと、智行はいつか無理矢理付き合わされた酒の席で聞いたことがあった。
その吉田はニュース番組を横目で見ながら言った。
「寒い訳やで。北海道からの寒冷前線がこっちまで降りて来よる」
男性アナウンサーが札幌で記録的な大雪が降ったと伝えていたが、その論調は批判的だった。行政が判断を誤り除雪作業車を出動させなかった為、四十センチ以上降り積もった雪が市内の交通網を麻痺させたのだと。
「松藤君、それよかったら幾つか持って帰り」
吉田が顎で指し示したカウンターの上に、雑に開封されたダンボール箱があった。中には炭酸ガスタイプの固形入浴剤がぎっしりと入っている。
「これ、破損ですか」
そこで吉田は意地悪そうに笑った。
「そう、箱が潰れちゃったのよ。なんべん言うても乱暴に放る奴がおるからね」
吉田は普段の仕事中こそ標準語だが、くだけた時は関西弁と標準語が入り混じった妙な言葉遣いをするのが癖だった。
「絶対わざとでしょ。こんな寒い日に限ってタイミングが良過ぎるでしょ」
智行はバックパックを肩から外すと、遠慮なくラベンダーやジャスミン、森林浴タイプなどの入浴剤を五つほど見繕って中に仕舞った。
「それでな松藤君、ちょっと相談なんやけど、来月もう少しシフト増やせませんか」
「すみません、来月はちょっと」
「忙しいんか」
「ええ、本業のほうが」
吉田は微かに眉をしかめた。何度も説明した筈だが、記憶回路が錆び付いているのか。
「たしか、コメディアンの卵やったっけ」
智行は時代錯誤な感じすらするコメディアンという言葉に思わず苦笑いしながらも頷いた。
「まあ、そんなようなもんです」
「そうか。暮れはパーティーシーズンやから稼ぎ時なんやね」
「はい、すんません」
「そしたらしゃあないな。いや、こっちも歳暮時期やからね。毎年そうやけどこの時期は全然手が足らんようになるのよ。本社の連中は現場を知らんから言うても言うても人を寄こさんしね。せやから結局今いる人間に皺寄せが来てしまうのよ」
吉田は何かと言うと自分を不遇する本社に敵意を剥き出しにする。
その時背後で、「お疲れ様でした」と小さな声が聞こえた。
振り向くとタイムカードを押した川瀬がそそくさと出て行くところだった。現役の大学生らしいが、どこの大学の何の学部かは知らない。何しろ挨拶以外、ほとんど実のある会話を交わしたことがない。
吉田は川瀬に挨拶を返すことなどなく、また入浴剤を勧めることもなかった。こちら側の人間ではないと既に〝仕分け〟してしまっているのかもしれない。
「そうかあ」
吉田は露骨にため息をつくと、ぬるそうな茶を口に含んだ。
「松藤君、年なんぼやったっけ」
「三十七です」
「三十七か。そらもうええ年やな。そしたらいつまでも夢ばかり追いかけてないでぼちぼち地に足を付けた生活をせなあかんよ」
智行は答えずに時計に目をやった。時刻はまもなく夜の十一時四十五分になる。シフトは夕方五時から十一時までだったが、今日は道路渋滞の影響で到着便が重なってしまった為、急遽残業を命じられたのだ。だがもう、これ以上ここにいる必要はない。
「松藤君さえその気なら、いつでもうちの契約社員になれるよう私から会社に言ってあげるんだから――。せやからぼちぼち自分の人生設計についてちゃんと考えたらどうやの」
「はあ、すんません。お気遣いありがとうございます。……それじゃこの入浴剤、遠慮なく頂いていきますんで。どうもお疲れ様でした」
智行は得意の愛想笑いを浮かべると、軽く頭を下げてハヤブサ便の事務所を後にした。背後で吉田が何か言っていたが、その言葉の途中で扉は閉まった。
(二)
新大橋通り沿いの商店街では、既に幾つかの気の早い店がクリスマスシーズンのデコレーションを飾り始めていた。中にはクリスマスケーキ予約開始のポップが貼られている店もあった。
自転車のハンドルを握る指先の冷たさが、否応なしに年の瀬が迫っていることを智行に感じさせた。パーカーの上からスタジャンを着ていても、この寒さは如何ともし難い。
部屋に帰ったら早速炭酸ガスの入浴剤で暖まりたいところだけれど、今暮らしているアパートの風呂には追い炊き機能がないし、この時間から湯を溜めるのは少々気が引ける。
大島橋の坂道に差し掛かかると、智行はペダルを漕ぐ足に一層の力を込めた。菊川のアパートまではあと五分ほどだ。
地に足の着いた人生設計が、宅配便屋の契約社員だなんて笑わせるにもほどがある。せめて百歩譲って正社員だろアホが――。智行は心の中でそう毒づいた。
一生冷たい風に吹かれながら、お中元やお歳暮の仕分けをするなんて自分にはとても考えられない。そもそも宅配便屋のアルバイトを選んだ理由は、時給が良いこととスケジュールが空いた時に急に電話しても大抵、問題なくシフトに入れるからだった。
それが智行のように生活リズムが不規則なタイプの人間には好都合だったし、また智行のように本業でたいした収入の得られない人間にとっても、非常に有難い職場ではあったが、あくまで一時凌ぎのアルバイトだ。
今後の人生に役立つこともなければ、思い出に残ることすらない。
赤信号でブレーキをかけて停まったが、すぐに青に変わった。智行はサドルから腰をあげて、再びペダルを踏む足に力を入れた。
ラーメン屋と牛丼屋が並ぶ角を左に曲がって一本裏の路地に入ると、煤けたような灰色の四階建て鉄筋コンクリートが見えてくる。
築三十五年、四階建てエレベーターなしの鉄筋コンクリートで、一階は処方箋専門の薬局と駐輪場、二階から上が賃貸アパートになっていた。
智行は自転車の勢いを落とさずに駐輪場の所定の位置に滑り込んだ。そのまま飛び降りて後輪の鍵を外し、勢いをキープして外階段を三階まで駆け上がる――、これが最近の癖だった。少しでも躊躇すれば、途端に階段を上るのがきつくなるような気がするからだ。
部屋の明かりが外廊下にまで漏れていた。
智行は乱れた呼吸を整えてから、鍵穴にキーを差し込んだ。
玄関を開けるとすぐに狭い台所がある。右手にはトイレと風呂場。台所の奥は木枠の化粧ガラスを挟んで、六畳の居間兼寝室になっている。
明かりが点いているのは手前の台所だけだった。奥の居間は暗く、そこから微かな寝息が聞こえた。
台所にある二人用のテーブルの上に、ラップで覆われたチキンライスの皿が置かれていた。表面にそっと触れるとまだ微かに温かい。
チキンライスの隣には小型の電子ポットと固形のたまごスープ、そして丁寧にマグカップまで用意されていた。ポットの保温サインはオレンジ色に点滅している。
智行がこの部屋で暮らし始めたのは今から二年半前。
当時、箸にも棒にもかからなかったピン芸人での活動に見切りを付け、新しい相方を見つけて新コンビを結成した直後のことだった。
その新しいコンビの初ライブを観に来た客の中に栗原香織がいた。
香織は智行が数年前に関係を持った〝出待ちファン〟の一人だった。
つい懐かしさもあってライブ後の打ち上げに誘い、そのまま香織の部屋に転がり込んだのだ。
それ以来、ずっと帰らない日々が続いている。
智行はもう一度隣の部屋に耳を澄ませた。
リズミカルで時折、空気が漏れるような寝息が聞こえる。きっと口を開けたまま、涎をたらして寝ているのだろう。
香織の仕事は理容師だった。美容師ではなく理容師――。
智行の髪形はここ数年坊主だが、それでもおかげさまでこの二年以上、散髪代を一銭も払っていない。
香織は毎朝八時には部屋を出て、神保町の職場へと向かう。
帰りは大抵十時過ぎで、遅い日は終電になることもあった。
休みは月に六日――、おもに月曜日で稀に翌火曜日と組み合わせた連休が取れた。
この部屋の家賃や光熱費に食費、そして二年に一度来る更新料などはすべて香織が負担していた。
住み始めた頃は智行も半分負担すると約束したのだが、実際に払ったことはただの一度もなかった。
香織には少し変わったところがあった。
お笑いが好きで、男の髭を剃るのが好きで、口論が苦手で涙脆い。
物事を拒むことを知らず、智行の前で感情的になって声を荒げたことなど一度もなかった。
時々、智行が何かに苛立って、八つ当たりのような癇癪を起した時は、ただじっと俯いて黙り込んでいるだけだった。
笑うことが好きなくせに、笑い方は下手糞で、いつも困ったような笑顔しかできない、まるで苦笑いが顔に染みついているような女だった。
その香織も来年で三十歳になる。
さすがの智行も責任を感じ始めていた。
その売れない漫才師は五月で三十八歳になる。
この切羽詰まった〝もう後がない〟感は、日々尋常ではない重さで智行に圧し掛かってくる。
とは言え、芸人としての先月の給料は約二万五千円。アルバイトの収入をあわせても、十万円に届かなかった。
このままじゃどうにもならない。売れなきゃ始まらない。売れなきゃ何ひとつ始まらない。
智行は電灯の紐を引いて明かりを豆電球の暗さまで落とすと、椅子に座ってチキンライスのラップを捲った。
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