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エピローグ
満場の拍手に迎えられて、舞台左側から花田ライトがゆっくりと現れた。
中央に一本のスタンドマイク―――、サンパチマイク。
その右側に花田はすっと立った。
中肉中背、猫背で怒り肩。
濃紺のブレザーを着て派手な紺赤縞模様のネクタイをだらしなく緩めている。
花田は黙ったまま虚空を見つめると、時折、何かに耳を澄ませては小さく頷いた。
拍手は鳴りやまない。三人が揃って出てくるものとばかり思っていた観客は聊か虚を突かれた演出に面喰いながらも、本日の主役である花田ライトの〝独演〟に淡い期待を寄せていた。
そこで花田はおもむろに喋り始めた。
「ああ、嫌んなっちゃうよ――。まったく嫌んなっちゃう。……もうやってられないよ」
しばし、無言の間――。花田は視線を自分の左側に向けた。
「え? 何がって? ……そんなもん何もかもだよ。……なにが楽しく漫才だよ、馬鹿馬鹿しい。今日のお客さんもみんなシラケちゃってるよ」
観客は何が始まっているのか理解できていない。
花田が誰に向かって何を話しているのかすらよく分からない。
「そんな訳あるよ。だって俺たちゃ世間でなんて言われてるか知ってるか? シラケ世代だぜ。シラケ鳥飛んでいけ南の空へだぜ。みじめ、みじめ、だよ。……ああ、人のギャグだって勝手に使うよ。そうじゃなきゃ馬鹿馬鹿しくてやってらんないよ、シラケ世代なんだから」
花田は自分のネクタイに手を伸ばし、少しだけきつく締めた。
「だから今日はひとつ辛気臭い漫才でもしようかと思ってさ。……うん、そりゃあ、聞いたことないだろう。世界で初めてだぞ、辛気臭い漫才」
そこで花田は左を向き、首を横に振った。
「大丈夫だって――。そうだな、葬式のネタなんかどう? 縁起でもない? 縁起でもないからいいんじゃねえか。どうよ、縁起悪くて辛気臭い漫才なんてなかなかだろう?」
今度はそっぽを向くように右方向に視線を投げてから再び顔を左側に向けた。
「強引でもなんでいいよ――。ところで君、自分の葬式はどういう風にあげてほしいの? ……えっ? 考えたことない? そいつは変わってるな。……そうか? 普通は考えるよ。だってそうだろ、結婚式と同じで、主役はあくまで自分なんだからさ、ある程度は自分自身でプランを立てなきゃダメよ。死んだからって何でも人任せなんて無責任過ぎるぜ」
その口上は淀みなく、活舌は滑らかで、長いキャリアに裏打ちされた実力を如何なく発揮していた。
花田ライトは骨の髄まで漫才師だった。
◇
花田が部屋を出て行った後、しばらくの間、誰も口を開かず黙り込んでいたが、その静寂を打ち破ったのは芹沢衛だった。
「亀山さん、残念ですが本件を刑事事件として立件できる期限はとうに過ぎています。先程仰った〝撤廃された時効〟は死刑に相当する殺人罪――、または強盗殺人罪において起訴された事件だけが対象です。当時この件は自殺として断定されました。つまり公訴時効は成立しています。もし花田の自供が取れたとしても検察がどう判断するか。……私の経験では非常に厳しいと言わざるを得ない」
「だったら――」
真理子の声は震えていた。
「なぜ、今になって」
「私は何年も前に刑事を辞めた人間です。それでも花田のことはずっと心に引っかかったままでしたし、ここにやって来たのも花田を絶対に逃がすものかという一心だけでした。……しかしね、漫才師として復帰した彼を見ている内に不思議ともうこのまま捨て置こうという気持ちになったんです」
智行は花田が誰よりも芹沢に心を許していたことを知っていた。だからその芹沢が元刑事だという事実に心底驚いたのだ。
「おそらく彼は漫才師として人前に立つことは二度とないと諦めていたのでしょう。それがこうして奇跡のように返り咲けた。そんな花田ライトの心の奥底からの喜びが私にも伝わって来たんです。だから正直、情にほだされた部分があります」
芹沢は再び、佐々木真理子に向き直った。
「でも真理子さん、あなたの存在が私に使命を思い出させた。まだ草壁ライムさんの無念は晴らされちゃいない。二人の時計はあの日から止まったままなのだと。だからせめて花田に罪の呵責があるのならその良心に問いたかった――。そして最後にそれを見届けたかった」
芹沢衛はそこまで話すと力なく肩を落とした。
真理子はそっと涙を拭って無言のまま芹沢を見つめた。
その表情はもう芹沢を責めていなかった。
その時、壁の向こうから一際大きな歓声が聞こえてきた。花田ライトが舞台に上がったのだ。
たった一人で登場した花田に対して満場の観客はどう感じるだろう。意表を突いた演出だと思うだろうか。
松藤智行は今日の単独ライブを終えたら芸人引退を表明するつもりだった。もうこれ以上、花田ライトに対する責任を負い続けられない。だからギブアップするのだ。その為に亀山大吉に招待券を贈り、佐々木真理子にも是非観に来てほしいと懇願した。つまり自分が逃げ出す意味を二人に肯定して欲しかったのだ。けれど、まさかこんな展開になるとは思いも寄らなかった。
花田ライトは相方・草壁ライムを自殺に追い込んだだけでなく、睡眠薬を使って殺害した疑惑まで浮上した。それが三十年前の出来事で、今はもう罪に問えないとしても花田ライトという漫才師はこれで完全に終わる。間違いなく、今日が人生最後の漫才となる。
そう考えたら居ても立ってもいられなかった。
智行は一人楽屋を飛び出すと、細長い舞台脇の通路を抜けてロビーから劇場に通じる大きな扉を開き、客席後方の暗がりに踊り出た。
目の前の客席は見事に埋まっている。そしてそのすべての視線が舞台上の花田ライト、ただ一人に注がれていた。
◇
花田は胸の前で揉み手をしながら底意地の悪い微笑を浮かべた。
「分かったよ。じゃあ今日は特別に僕の相方・草壁ライムの葬式プランについて考えてみようじゃないの。……いいから任せなさい。僕はこういうの得意なんだから。……それじゃまずは和式・洋式どちらで行きましょう? ……違うよ、便所の話じゃないよ、衣装の話だって言ってんの。……ああそう、和式ね。意外と古臭いね。それだと白装束の着物になるから、四谷怪談のお岩さんみたいになっちゃうけどいいの? 三人に一人は棺桶の中の君を見て吹き出すよ。大丈夫? ……えっ? じゃあ、洋式の方にする? こっちはタキシードだよ。ビシッと決まってかっこいいけど、これもドラキュラのコントみたいになっちゃうな。まあ、どっちみち笑われるよ。……何、楽しくていいじゃねえか、笑いがある葬式ってのも。さすが新人類って褒められるよ」
智行は固唾を呑み、一人きりでライムライトの漫才を演じる花田を見守った。それは智行も知らないネタだったが、おそらく花田自身も人前で演じるのは初めてだろう。
「だったら棺桶も式場も普通でいいんだな。つまらねえな。客はきっと退屈するぞ。じゃあ、せめて入場だけでも演出に拘ろう。入場は一番目立つところだからね。最近はゴンドラタイプがお勧めだな。……そうだよ、もちろん葬式の話だよ。君は相変わらず古いね。あのね、葬式だからって別に棺桶の中でボケっと寝たまんまじっとしてるこたあないんだよ。……だから死んでたとしてもさ、そこはやる気でなんとかなるだろ。……ならない? ああそう」
時折、笑い声が漏れ聞こえて来た。しかし誰しもが笑っている訳ではない。 自分はお笑いを理解している、そういったエゴの匂いがする笑い声だった。
「とにかくね、人生最後の一大イベントなんだからもっと個性的にやらないと。……ゴンドラ式? 一度くらい結婚式で見たことあるだろ? 天井からゴンドラが降りて来て中に君が横たわってるの。……そりゃあ、ゴンドラに揺られて死体が出てくるんだから大抵の子供は泣くよ。結構トラウマになるらしいよ。……ああそう、ダメ? 相変わらず頭が固いね、君は」
サンパチマイクを挟んで花田の左側に一人分の空間が空いている。
智行はそこに一瞬だけ幻影を見た。
背が高く、痩せた男のシルエットを――。
そして疲れたようなボヤキ声も聞いた。
相方を嗜め、叱り、問い質す生真面目なツッコミを――。
もちろんそれらすべてが錯覚だと言うことは理解している。
叶うことなら今まで起こった出来事すべてが錯覚であってほしい、智行は心からそう願った。
「あと一番大切なのは君からの手紙だ。そう別れの手紙ね。これ本当は君が読んだ方が良いんだけど、死んじゃってるから無理だな。だから今日は特別に俺が読んであげよう。……うん、こんなこともあろうかと思って、もう用意してるんだよ。……いいんだよ、誰が書いたって、こんなもん中身はだいたい一緒なんだから。じゃあいくよ」
花田は前を向いて姿勢を正すと両手を胸の前に上げて透明の手紙を開いた。その表情からは微かな緊張が感じられる。
「ええ、本日は私、不肖・草壁ライムの告別式に奮ってご参加頂き誠に、えっ、まっことぉにぃありがとうございます! ……えっ? 別におかしくないよ。暗い手紙じゃしんみりしちゃうから、これくらい軽いノリでいいんだよ。……まずはご挨拶に変えて乾杯のご発声から。……えっ、乾杯じゃなくて献杯? どっちでもいいじゃねえか、うるせえな。……じゃあもうここは飛ばそう。続き読むよ。……ええ、本日ご列席頂いた皆様方には生前公私ともに大変お世話になり、感謝の念に堪えません。こんな至らない草壁ライムではございましたが、皆様より一足早く先立つ不幸を深くお詫び致します。……なあ、いい感じだろ?」
花田は当然と言った調子で満足そうに頷いた。
「ええ、こんなに良くして頂いた皆様に結局何ひとつ恩返しすることが出来ず、大変心苦しく思っております。……いっそのこと死んでお詫びします。いや、もう死んでるか。……とにかくもう何もかも絶望しました。希望もクソもありゃしない。どいつもこいつも馬鹿野郎だ、こん畜生!」
そこで花田は驚いた顔をして首をすくめた。まるで誰かに頭を叩かれたように。
「何だよ、今、ちょうどいいところじゃねえか。……違う? 違うって何が?」
そして左側を向いて神妙に頷いた。
「そうだな。この手紙はちょっと悪ふざけが過ぎたな。……ええ、とにかくそういう訳でございまして本日は私・草壁ライムのささやかな告別式ではありましたが、こうして皆様にお見送り頂きこれ以上の幸せはございません。大変良い人生でした。思い残すことはもう何もございません」
そこで花田ライトはそっと目を閉じた。
そのまま言葉が出てこない。
ここに来て観客たちは今見させられているものの異様さをようやく悟り始めた。これは従来良く知っている〝漫談〟とはまるで違う、まさしく前代未聞の〝独演会〟だった。
智行もひどく緊張していた。このまま何も話さずに舞台袖に引っ込んでほしい――、そう願ってもいた。
しかしその思いは虚しく花田は再び目を開いて静かに話し始めた。
「いや、本当は思い残したこと――、あるだろ」
花田は右手で乱暴にネクタイを緩めて首から抜き、舞台下に放り投げた。
目の前の客がそのネクタイを拾おうと手を伸ばしかけたが、気が変わったのか、素早く手を引っ込めた。
花田が言葉を続けた。
「そりゃ、解散するち言うけんさ。……俺一人残されて何が出来るち言うの? 何も出来んよ俺一人じゃ。……真理子と結婚して、漫才辞めて、落語家になるって――、あんたはそれでいいけどさ。……やったら俺はどうしたらいいんよ」
客席は波を打ったように静まり返った。
無理して笑う努力など、とうに放棄している。
「なあ、惣ちゃん。……惣ちゃんってばよ。……なあ、頼むから、惣ちゃん。もうそん酒は飲まんでくれ。お願いだから。……悪かったよ。俺が悪かった。だからもう飲まんでって。……それ以上飲んだら俺一人残されてしまうやろうが。……頼むけん、俺を置いて行かんでくれ。……なあ、惣ちゃん。……惣ちゃん」
花田ライトは額の前に右手を翳すと目を細めて、客席上にある照明をじっと見つめた。
眩しく輝く真っ白な光の向こう側、〝名声〟という名のライムライトに照らされた相方の姿を探し求めて――。
もういいよ。
智行は居ても立ってもいられず、無意識にそう口にしていた。
けれどあまりにも胸が締め付けられて息苦しくて、その声は喉の奥で掠れたように萎んでしまい、花田はおろか、すぐ目の前にいる客にすら届かなかった。
だから今度はもう少し強い声で、ハッキリしたトーンで、そして芸人として正しい間合いで声を上げた。
もういいよ!
花田ライトの動きが止まり、観客のほぼ全員が一斉に振り返った。
満場の視線を浴びた智行はそれでもためらわずに言葉を続けた。
もういいよ!
もう、君とはやってられないよ!
花田はその細い目を更に細めて客席後方に立つ智行をじっと見つめると、満面の笑みを浮かべて深々と頭を下げた。
そして観客が舞台に視線を戻すのと同時に舞台袖に向けて素早く踵を返した。
去り行くその背中に無数の嘲笑がぶつけられた。
その冷ややかな笑いの波は渦を巻いて、いつまでも客席で燻っていた。
〈了〉
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