第一章

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 はあはあと息を切らせながら虹林香澄は上宮天満宮へと続く石段を登っていく。死んでしまった祖母にもう一度会うために。自分たちの店を守る為に。 「本当に、あった」  本殿横を通り抜け奥へと進むとそこには『守護天神』と書かれた小さな宮と、そして一匹の猫の姿があった。その猫こそ、神の使い、猫宮司だった。  大阪高槻のJR高槻以北に位置するほほえみ商店街の中にある喫茶レインボウ。そこが香澄の職場であり五歳から育った家だった。  香澄は朝からレインボウで出す新作メニューを考えていた。夕方、店を閉め晩ご飯を食べたあと、喫茶店の二階にある自宅のキッチンに香澄はいた。トーストに何を挟むのが一番いいか先程から作り続けているのだ。  毎日来てくれる商店街の人達から「何か変わり種が欲しい」と言われたからだ。変わり種と言っても不味い物が食べたいとか珍味が欲しいとかそういうことではないのはわかっている。ただみんな少しだけ、この変わらない日常に刺激が欲しいのだ。  喫茶レインボウは今流行りのカフェではなく昔ながらの喫茶店だ。香澄の祖母である弥生が今は亡き夫である香澄の祖父とともに若い頃に始めた。  あの頃は活気があったと弥生や他の店主たちが集まるたびに言っているのを聞きながら香澄は育った。両親を五歳のときに亡くした香澄にとって弥生や商店街の人達が家族のようなものだった。香澄が物心着く前になくなってしまった祖父も、随分と可愛がってくれた様子が今も写真に残されていた。  小さく切った食パンにブルーベリーと苺ジャムをダブルで載せるとそれを口に放り込む。苺とブルーベリーの甘酸っぱさがマッチして意外と美味しいのだけれど、いかんせん口の中が甘すぎる。あとはこれを店のメニューに加えると健康診断で引っかかる人を増やしてしまいそうだ。やはり健康志向の方がいいだろうか。  ふう、とため息を吐くと香澄は窓ガラスに映る自分の顔を見た。丸顔の香澄はいつまでも年齢より幼く見られる。けれどそんな香澄ももう二十五歳だ。若くないとは言わないけれど、十代の頃よりは確実に老けた気がする。学生の時に頭髪検査でよく引っかかった薄茶色の髪はいつの間にか肩よりも長くなっている。  そういえば最近、美容院に行ってないな、そんなことを思いながらもう一口トーストを囓る。今度は林檎のコンポートを載せてみた。先程より甘さは控えめでいい感じだ。 「あと二つ作ったんだけど、うーん」  一口サイズとはいえ、夕飯後に食べ続けるのは苦しい物がある。そろそろ自分で味見をするのが限界になり、リビングにいる弥生にも食べてもらおうと声をかけた。 「おばあちゃん、海苔トーストと餡トーストどっちがいいか食べてみてー」  イントネーションは随分と関西寄りになったものの、どうしても両親と暮らしていたときの言葉が抜けない。小学校の頃は随分からかわれたりしたけれど弥生が「そんなん気に戦でええ。どんな言葉を使ってても香澄は香澄やねんよ」と優しく言ってくれたから、香澄は恥じることなく生まれ育った街の言葉を今も使っている。  お皿に載せながら「私なら海苔、いやでもここは甘い方が」なんて呟くけれど一向に祖母がキッチンに来る気配がない。テレビを見ているのかニュースキャスターの声だけがやけに響いている。 「おばあちゃん? 寝ちゃったの?」  最近よくリビングで寝てしまうことがある。年のせいだけじゃなく疲れているせいもあるのだろうと香澄は申し訳なくなった。いくら元気だからと言っても弥生ももう七十一だ。とっくに隠居していても不思議ではない。  とはいっても、弥生本人がまだまだいけると言う上に、この辺りの商店街では七十どころか八十や九十になっても現役で働いている人もいる。この間も「まだまだ若いわよ」と金物屋の澤に言われていた。そんな澤はつい先日迎えた誕生日で九十になったと言っていたから驚きだ。二十五の香澄などまるで赤子のような扱いをされるのも仕方ないのかも知れない。  それでもここ数日は疲れが出ているようで早めに休んだり、こうやってテレビを見ながら寝たりしてしまうことも増えた。今は毎日店に出ているけれど、週に何日か休んでもらう日を作ってもいいのかもしれない。そんなことを考えながらリビングに向かうと、予想通りテレビの前でうたた寝をしている弥生の姿があった。
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