揺蕩う煙の向こう側

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 入居して五、六年が経つ家賃の安さばかりが売りの古びたアパートと最寄り駅の中間地点には、これまた古く寂れた煙草屋が建っている。店の前には人気の銘柄ばかりの煙草自販機と、コーヒーやらエナジードリンクばかりのドリンク自販機が並んでいた。そこはちょっとした雑貨を売っている商店も兼ねているようで、軽食やらコーヒー以外のドリンク、或いは少しマイナーな銘柄の煙草なんかは店が開いている時に買えということなのだろうが、朝六時には家を出て二十時を過ぎた頃にようやく家に帰り着く久我夏生(くがなつき)はそのシャッターが上がっているところを見たことがなかった。  しかし夏生はこの店を存外気に入っている。買い物は一度たりともできたことはないが、店先に置いてある灰皿によく世話になっているからだった。  仕事に忙殺される毎日、しかも片道二十分ほど掛かる最寄り駅までの通勤路で、合間に立ち寄れる喫煙場所というのは、夏生の細やかな拠り所となっていた。  胸ポケットにしまっていた煙草を取り出して咥える。昨日の帰り、満員電車で揉まれたせいか、よれて草臥れてしまった煙草がなんとなく自分と重なって見えた。別段ソフトパッケージに拘りがあるわけでもないが、初めて買った煙草がソフトだった為惰性で同じものを吸い続けている。その上、以前まで使っていたシガーケースがなんとなく使いにくくなってしまったせいで胸ポケットへ収めているわけだが、ポケットの中に葉っぱが落ちるわ潰れるわであまり良いことがない。けれどあまり自分に関心がなくものぐさな夏生は、結局毎日些細な後悔を積み上げていく。  煙草と共に取り出したネジ式のライターを擦る。けれど百円かそこらで買ったライターは僅かに火花を弾けるばかりで中々火が点かない。二度、三度と着火を試みて、ようやく点った火に煙草の先端を傾け息を吸い込む。お役御免となったライターを揺らしてみれば、案の定オイルが殆どなくなっていた。  コンビニに寄った折りにでも買い換えようと思いながら、冷たい空気と一緒に煙を肺へと送り込む。健康的とも言われる早朝の時間帯に、ランニングや散歩をする人々を眺めながらぼんやりと不健康に沈んでいくアンバランスさがなんだか可笑しい。それでも、会社で多くの同僚たちと肩肘を並べて仕事をしているときよりずっと、世界に溶け込めているような気がして言い知れぬ孤独感が和らぐのだ。 「……さん……ねっ、おにーさんってば」  ふわふわと飛んでいた思考がパチン、と弾けた。ここで煙草を吸っている最中に誰かから声を掛けられたことが初めてだったせいか、夏生の身体は大袈裟なまでに跳ね上がった。それを見た、夏生に声を掛けて来ていた男も、一瞬驚いて目を瞬かせていたけれど順応が早いのか夏生が状況を把握するよりも先にふ、と口元を弛める。 「ごめんごめん、ビックリさせちゃった? ライター、貸して欲しくってさ」  ダメ? と小首を傾げられる。キラキラとした金髪がさらりと揺れて、仄かに甘い香りがした。覚えのある香りに心臓がきゅうと締め付けられて、記憶が追い付くよりも先に感情が先走る。ぐらぐらと視界が揺れて、男の顔がろくに見えない。 「いや、あの、」 「ダメ?」 「申し訳、ないんですが……オイルが、切れていて」  遠慮なく距離を詰められ萎縮しながらも言葉を絞り出すようにして途切れ途切れに訴える夏生を見て、男は合点がいったとばかりに頷く。 「なら仕方ないね」  柔和な笑みを浮かべた男がゆっくりと離れていく。見知らぬ男が、遠慮なく侵入してきたパーソナルエリアから出ていったことに安堵つつ、落ち着きを取り戻そうと夏生が煙草を咥え直したその時だった。火が貰えないと分かった筈なのに男は煙草を取り出し黒いそれを咥え、またも夏生に近付いた。  ヒュ、と喉が鳴る。さらさらとした金糸が流れて、頬に触れる。煙草の先端同士が触れ合って、ゆっくりと火が移る。その間夏生は、そっと伏せられた長い睫毛を呆然と眺めることしかできなかった。 「ありがとね」 「……っ、」  そんな火種も盗み方など許可していないと抗議の一つでもしてやりたかったのに、吐き出される煙の懐かしい匂いに何も言えなくなってしまう。甘い匂いでコーティングされた、苦い思い出。 「なぁに、おにーさん」  じっと見詰めてくる夏生を不思議に思ったのか、男が目を細めて笑い掛けてくる。容姿、声の弾み方、呼称。どれをとっても似つかないのに、纏う匂い一つで、身体の内側からじくじくと熱が蘇ってくる。  その煙草は、誰よりも愛していた昔の恋人が吸っていた銘柄だった。
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