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死んだはずの中学時代の友人が、自転車に乗ってやってきた。
きっとこの時の話をすれば、聞いた相手はおおむねおかしな顔をするだろう。「仕事のやりすぎでいよいよ頭がおかしくなっちまったのか」とあわれに思う者もいれば、「薬でもやってんのか?」といぶかしがる者もいるだろう。私だって、知人がそんなことを言い出せば、「そろそろ有休消化しようぜ」と提案するか、「警察には黙っておくから一回病院に行こうぜ」と119を押すであろう。
そう思いながらも、なんとなく、久々に会った友人Tにこの時の話をした。「聞き流してもらって構わないんだが」といった切り口で。すると、意外にも、「お前もか」という答えが返ってきた。
詳しく聞いてみるに友人Tの元にも、あいつは自転車に乗って現れたらしい。
「夜中の2時だったかな。わざわざ家まで来たよ。それで、インターホン連打して、寝ている僕を叩き起こした」とのことである。
「死んでまで迷惑な奴だな」私は言った。
「まったくだよ」友人Tは困惑したようにうなずいた。
「中学生の頃に死んだから、きっと精神年齢は中学のまんまなんだろうな」
「でも、一応、身体は成長してたね」
「たしかに」私は成長したスーツ姿のあいつを思い浮かべる。「あの世でも、大人になれるんだな」
「あいつも、僕の成長には驚いてたけどね」
「お前、ガタイいいもんな」
事実、友人Tの肩幅は日本人にしてはずいぶんとたくましい。運動不足とアルコールでたるみまくった私とは大違いである。
「でも、あいつ、僕が社会人スポーツやってるのは知らないだろうな」
「いや。それは俺が言ったよ」
「そうなんだ」
「信じなかったが」
「だろうね」
「お前、ガキの頃運動苦手だったもんな」私だって実際に友人Tが試合で活躍している様を見なければ信じなかったぐらいだ。
「苦手というか、嫌いだったんだよ」友人Tは過去を振り返るように言った。
「それが今や休日となれば運動運動の毎日か」
「変わるもんだね。あの世でもこの世でも」
「でも、あいつの顔あんまり変わってなかったな」私は、成長したスーツ姿のあいつの顔を思い浮かべる。「昔と同じで憎たらしい顔だった」
「行動もあんまり変わってなかったかも」
「あいつ、また何かやらかしたの?」
「いや、流石に中学の時みたいに、盲導犬の主人に中指立てたり、みなしごに養子縁組の資料渡したりするようなことはなかったさ」
「あいつ、そんなことやってたっけ?」記憶を探る。
「ああ。あとは、老人ホームの看板に『でっかい棺桶』ってペンキで書いたり、先天的に足のないクラスメイトに革靴プレゼントしたりしてたよ」
「なんであいつ地獄に落ちてないんだ」私は呆れた。
「いや。一応ちゃんと地獄に落ちたっぽいよ。ただ、間違って現世に這い上がってきてしまったらしい」
「まるでどっかの神話に出てくる悪魔だ」
「成仏する方法を探してたよ、あいつ」
「間違い探し、だろ?」私はあいつに教えられたことを思い出す。
「そうそう。それ。間違い探しだ」
「あの世にもくだらないルールがあるんだな」私は毒づく。
「そうらしいね。でもあいつ、成仏する気なんてあんまりないのか、やたらと長話をしてたよ。『俺ができなかったから親孝行は絶対しとけ』だの、『俺ができなかったからセックスはちゃんと楽しめ』だの、余計なお世話ばっかりだったけど」
「なんだよそれ」
「昔の思い出話もしたよ。お前の話もあったな。小学生のころ、ロシアに隕石が落ちたってニュースがあった時、お前、どうしても隕石を見てみたくて、自分の小遣いとモスクワまでの飛行機代を見比べて、肩落としてたらしいじゃないか」
「そんなことあったっけ?」私は自分の記憶を掘り起こしてみるが、うっすらと、そんなことあったかもな、と思い出す程度だった。「なんでそんなことまで覚えてるんだあいつ」
「ま、特にお前と仲良かったからね」
「そうだっけ?」
「自覚なし?」友人Tは呆れたように言った。「てっきり、お前ら、再会したときに泣いて抱き合ったものかと」
「俺たちほど涙が似合わない奴はいないだろ」
「だね。醜い顔がより醜くなって終わりだ」
「くたばれ」お前だって、たいした顔じゃないだろ。
「で、どうだったの? 実際。お前のとこにも来たんでしょ、あいつ」
「いや」私は返答に困った。「来たには来たんだが」
「なに。歯切れ悪いね」
「確かに、駅前で営業をサボってたら、あいつは自転車に乗ってやってきたよ」
「来たんじゃん」
「でも、感動の再会に抱き合ってむせび泣くなんてことは当然なかったし、思い出話に花を咲かせることもしなかった」私はそこで友人Tの顔を見つめる。「あいつは返済を求めてきたんだ」
「へ?」友人Tは聞きなれないであろう言葉に首をかしげる。「返済? どういうこと?」
「あいつは、俺にこう言ったんだ」
「ほう?」
「かしたかさかえせよ、って」
それは九月の終わりごろ、心霊話なんてものが似合わない季節にさしかかりつつも、昼間の手の施しようのないむし暑さは健在で、営業で外回りをしなければならない身としては、いかにサボることができるかを思索することが重要な時期のことだった。
そんな秋の真っ只中に、あいつはふらっと現れた。その幕開けは、自転車の車輪がカラコロと回る心地よい音だ。私は駅前の噴水の前のベンチに腰掛けてぐったりとしながらその音を耳にした。
なにげなく、音のする方を見る。雑踏の中、自転車に乗るそいつの姿は一人だけ涼し気で、なんだか目立っていた。
最初、幻覚だと思った。現実社会に疲れてノイローゼ気味になった私の脳みそが哀れな自分を空想の世界へいざなってくれているのだと思った。けれど、そいつを乗せた自転車が私の方へ近づくにつれ、徐々に現実味が増していく。私は、「マジかよ」と呟いていた。
あいつは私のほうに自転車から降りることなく、けれど歩いているのとほとんど変わらないぐらいのスピードでやってきた。そして私のすぐそばで停車した。軽いブレーキの音は噴水と雑踏の音の中でもしっかりと響いた。それからあいつの声。
「よう」
あまりにそっけない挨拶で、私はつられて、「よう」と返事をする。それから、およそ十年ぶりの再会が、それも現実世界では突如としてSF的な世界観かファンタジー的な世界観が舞い降りてこない限り決してあり得ないような再会が、「よう」だなんて短い挨拶で終わることを避けるべく、慌てて精一杯抵抗することにした。
「『よう』、じゃねぇよ」
「なんだよ。文句あるかよ」
「山ほどあるだろ」私は自分の希薄な人生至上最も混乱していたはずだが、不思議とそいつを前にしては、すらすらと言葉が出てきた。「お前、なんで生きてるんだ?」
「ずいぶんなご挨拶だな」
「だってお前、死んだはずだ」私はこいつの葬式で骨を拾ったことを思い出す。
「地獄から戻ってきたんだよ」
「は?」私はあっけにとられる。が、困惑で脳の容量を九割ほど支配されていながらも、残りの一割の内心でうれしくないわけではなかった。腐れ縁とは言え、幼少の折から顔の知っていた友人に、久々に会ったのだ。気恥ずかしさや戸惑いはあれど嬉々とした感情が微塵もないなんてことはない。
「お前に会いに、地獄から戻ってきたんだ」
それに加えて、そいつの発言は、なんだか魅力的でもあった。それは私の日常が、会社に安月給でダラダラ働かされているサラリーマンとしての生活が、劇的なまでに魅力的でなかっただけなのかもしれない。しかし、目の前に立つ、幽霊なのか妖怪なのか化け物なのか悪魔なのかわからないがつまりはそういった類のそいつの発言は、私を未知の世界へと連れて行ってくれる予感がした。例えば、世界を救うスーパーヒーローから、「君に会いに来たんだ」と言われたとして、そんな状況で、「あ、これって俺にも世界を救う超常的な能力があるパターンじゃね?」とワクワクしない日本人男性はいないはずだ。そして、この瞬間の私の状況は非常にそれに近いものであった。当たり前である。十年前に死んだはずの友人が突然目の前に現れたのなら、「俺と一緒にゾンビの王国を作らないか?」的なファンタジーが待っているか、「俺が生前やり残した夢をかなえてくれないか?」だなんてハートフルなヒューマンドラマが待っていると思ってしかるべきだろう。
そんな凝縮された一瞬の思考の末、私は言った。「何の用だよ? 世界征服ぐらいなら付き合ってやってもいいぜ」と。
しかし、あろうことか、そいつは、「はぁ?」とすっとんきょうな声を出した。それから、「何言ってんだよ。俺はお前に貸した傘を返してもらいに来たんだぜ」と耳を疑うことを言った。
「なんだって?」思わず聞き返す。
「だから、かしたかさかえせ、って」
「わざわざ地獄から? そんなことを言いに来たの?」
「ああ」
「ふざけんな」
私は腹立たしく感じた。両親に小学四年生の誕生日を古本一冊で済まされた時ぐらいイラっとした。あれだけ楽しみにさせといて、そんなのってないだろ、と。
もちろんこれは私が勝手に期待して勝手に落胆しただけの、非常に身勝手な怒りである。が、目の前でへらへらしているそいつの顔を見ていると、「やっぱりこいつのせいで俺はこんな腹立たしさを覚えているのだ、そうに違いない」という気分にすらなってきた。
故に、そいつが、「あの時に貸した傘、返せよ」ともう一度言った時、「嫌だ」と即答してやった。
「そもそも、お前から傘を借りた覚えがない」
「は? 中二の時、貸してやっただろ」
「お前、中二の時に死んでるだろ」
「いや、死ぬ前だよ。だからはっきり覚えてる。死ぬ直前、『あ、傘返してもらってねぇ』って」
「どんな走馬灯だよ」
「思い出せ。雨の日、青山にお前がコクって、それでフラれた日だよ。で、おめぇ、傘も持たずにとぼとぼ濡れながら帰宅し始めたから、あまりに不憫で貸してやったんだよ」
「情けないことを思い出させるなよ」
「だめだ。思い出せ。あの日、俺は濡れて帰ったんだぜ」
「それで風邪ひいて重症化して、最後は肺炎になって死んだんだな」ざまあみろ。
「違うわ。あと俺の死因は心臓麻痺な」
「あれ、そうだっけ?」私はたばこをくわえて草野球をする当時のやつの顔を思い出す。「てっきり肺炎かと」
「肺炎で死んだのはお前のじいさんだろ」
「違う。ばあさんだよ」
「あれ? ならお前のじいさんは何で死んだんだっけ?」
「まだ生きてるわ」勝手に殺すな。
「すげえ長生きだなあのジジイ」
「ほんとだあのジジイ」私は大きくうなずく。「まだ五体満足だぜ」
「そろそろ足切り取って武田にくれてやろうぜ」
共通の友人の名前が話題に上がる。
「武田か」私はおうむ返しに名前を呟く。もう長年会っていない友人だったので、なかなか顔が思い出せない。
「あいつ面白い奴だよな」私とは対照的に、そいつは武田の顔をありありと思い浮かべているようだった。「中一の時、あいつに革靴をプレゼントしてやったことがあるんだが、あいつ笑ってたからな」
「イカれてるな」
「ほんとだよ」
「そういや、ちょっと前に別の奴から聞いたんだが、あいつ今テニスやってるらしいぜ」
「嘘だろ?」驚いた顔をされる。「あいつ足ないから走れないじゃん」
「車椅子テニスだよ」
「嘘だ」
「嘘かもな」私もその意見には同意だった。「人伝だからよくは知らん」
「武田と直接に連絡はとってないのか?」
「ああ。数年ぐらいはないな」
「どうして?」
「俺も仕事が忙しいんだよ」
「くだらねぇ」
「働かずに死んだお前に言われたくねぇよ」私は毒づいて、「つか、傘なんてなんで今さら?」と不意に気になったことを聞いてみる。
「そら、俺が成仏するためだ」
「は? 成仏?」
「そう。成仏だよ」そいつは生きている俺よりもよほど血色のいい顔でうなずく。「俺、べつにこっちに戻ってくる予定なんてなかったのよ。ただ、たまたまミスっちゃってな」
「ミスると生き返るあの世ってなんだよ」
「とにもかくにも、もう一回成仏せにゃならんのよ」
「じゃあさっさと成仏しろよ」
「それがそんなに簡単な話じゃないんだ」
「何かアーメン的なことが必要なのか?」
私は、カタコトで日本語をしゃべる神父が十字架を片手にこいつの魂を浄化する光景を想像してそう言ったが、しかし、返答は、「いや、それじゃだめだ」という否定だった。
「なら、玉串振り回しながら祈祷でもしてやる必要があるのか?」
「和洋関係ねえよ」
「宗教いらないのか」
「神様ごときに人の魂がどうこうされてたまるか」
そらそうだ。
「じゃ、どうすりゃお前は成仏するんだ?」私は問うた。
「それがさ、この世で間違いを十個行えばいいんだってよ」そいつは両手でパーを作った。「十個間違えれば、成仏できるらしい」
なんじゃそら。と私は思った。それと同時に、逆じゃね? とも思った。だから言った。「逆じゃないのか?」と。
「逆?」
「ああ。東に病気の子供あれば行って看病をしてやったり、西に疲れた母あれば行ってその稲の束を背負ってやったり、そういう善行を十個行えば成仏できる、とかじゃないのか?」そういう物語なら、絵本とかでありそうな気がする。
「違うよ。別に現世でどれだけの人を救っても、そいつらにそれぞれ感謝されて終わりだ」
「そんなもんなのか」
「そうらしい。ま、南に死にそうな人がいれば、行って怖がらなくてもいいって教えてやるけどな」
「お前が言うと説得力があるな」
「だろ?」
「でも、それなら間違いって、具体的に何をやればいいんだ?」
「それが俺にもよくわからないんだ」そいつはそこで初めて少し困った顔をした。「最初は軽犯罪でもやればいいか、って思ったんだが」
「軽犯罪じゃだめなのか?」
「万引きとかキセルとかいろいろやってみたがだめだった」
おまわりさん、ここですよ。
「でも万引きってのはなかなか難しいな。一回コンビニで万引きしたとき見つかって店長にボコられたぞ」
「小学生か」
「最近のコンビニの店長はたぶん元陸上競技選手が抜擢されているんだろうな。みんな足が速い」
「知らねえよ。というか、『だめだった』ってどういう意味だよ?」私は疑問を口にする。「万引きやらキセルやらをした時に、空から羽はやした全裸の赤ん坊でも降ってきて、『それは間違いにはなりませんよ』とか教えてくれるのか?」
「いや。そうじゃない。直感的にわかるんだ。『これじゃだめだ』って」
「便利なものだな」
「いや。そうでもないんだ」そいつは首を横にふった。「この直感、『今の俺の行動は間違いではない』ってことは簡単に感知するんだが、逆に、『今の俺の行動は間違いだった』ってことはなかなか感知しないらしい」
「というと?」
「具体的には、そうだな。こんな話がある」そいつは指をぴんと立てた。「この夏、夜中の廃墟に肝試しに来た大学生のカップルを、俺はおどかして遊んでたんだが」
「どこで何やってんだ」
「一度だけ、なんかめんどくさいなって思って、普通に挨拶したんだよ。カップルに。『どうも、こんばんは』って」
「ほう」
「そしたらさ、カップルも最初は驚いてたんだけど、俺があまりに平然としてたから、ちょっと戸惑った感じで、『あ、どうも』って。なんつうか、気を削がれたみたいだ」
「まあそうだろうな」
「ひょっとしたら普通の人間かと思われたのかもしれない」
「それは気の毒なカップルだ」数少ない若者の恋愛イベントを、見知らぬ男につぶされたとなれば、後で笑い話にすることはできても、若かりし淡い思い出にはなりえない。
「で、その時、俺はなんとなく思ったんだ。『お化けなのに、肝試しに来た者を驚かさないとはなにごとだ』って」
「お化けにも矜持があるんだな」
「でもよ、そしたら、直感的にわかったんだ。『俺は今、間違いをおかした』って」
「ほう」私は先を促す。
「カップルに普通に挨拶をしたときは何とも思わなかったのに、カップルに挨拶をしたことが間違いじゃないのかって気にした途端、それが間違いだと気づいたんだ」
「つまり、実際に間違いをおかした時ではなく、今やった行動は間違いだったんじゃないかって振り返った時に、直感が働いたってことか」
「そういうことだ」そいつはうなずく。そして続けて口を開く。「それだけじゃない。どうやら、この世での正解不正解と、あの世での正解不正解には乖離があるらしいんだ」
「なるほど」私は大いに納得した。『お化けたる者、肝試しに来た頭のすかすかな連中をすべからく驚かすべきである』なんてことを学校で習った記憶はないし、六法全書にも書いてないだろう。「それはやっかいだな」
「そうなんだ」そいつはうなずいて、私の方へ手を伸ばす。「だから、かしたかさかえせ」
「『だから』の意味が分からないな。今の話と、俺がお前の傘を返すことに何が関係あるんだ?」
私が言うと、そいつは呆れたように、「にぶいな」と短く言った。腹が立った。
「あのな、今日の天気は晴れてるだろ?」
「そうだな」思わず空に向かって中指を立てたくなるぐらいに快晴だ。
「そんな中、傘でもさしてみろ。絶対間違いだろ」
私は晴天の雑踏の中、傘をさすこいつの姿を想像する。
「確かに、間違いではあるな」
「だろ? これで成仏する条件が一つクリアされるって寸法よ」
「そんな簡単なことでいいのか?」
「それはやってみなけりゃわからん。さっき言ったろ? 直感には時間差があるって」
「不便なものだな」
「さっきと言ってることが違うな」
「といっても、お前に借りた傘なんて今持ってないぞ」
「家から持って来いよ」
「家にもねえよ」
「実家には?」
「実家にもないだろ。覚えてないぞそんなもの。多分、とうの昔に壊して捨ててる」
「はあ?」そいつは自分以上に驚愕の存在などこの世のどこにもないというのに、信じられないといった顔をした。「捨てちまったの?」
「いや、知らん。覚えてない。借りたことすら記憶にない」
「あれ六百円ぐらいしたんだぞ」
「傘にしては高いな」
「あれ捨てるのは間違いだわ」
「俺が間違えても意味ないだろ」
「どうすんだよ。成仏できねえじゃん」
「知らねえよ。また別の間違いを探すしかねぇだろ」
「他人事だな」
「他人事だからな」
「冷たい奴だな。地獄に落ちろ」
「実際に落ちた奴に言われたくねえよ」
それから私とそいつは軽くののしりあった。「人から借りたもの捨てるだなんて人として間違っている」だとか、「幽霊風情に『人として』の矜持を言われたくない」だとか、そういった醜い言い合いである。
そうこうしているうちに、そいつは、「なんだよ。役立たず」と言って再度自転車にまたがった。
「地獄に帰るのか?」
「帰れねえって言ってるだろ。また別の奴に頼るよ、バカ」
「ああ。さっさとどっか行け、タコ」
その時である。私は一つ、そいつの間違いを見つけた。うっかりしていてずっと気付かなかったが、雑踏の中にいるそいつを最初に目にしたときから、ずっと存在した間違い。ただ、それが間違いだと気づいた瞬間、その気付きは、即座に確信に変わった。おそらく、直感ってやつの仕業だろう。
「おい。ちょっと待て」
今にも走り出そうとしていたそいつは、私の静止の声に勢いをそがれたのか、おっとっと、と転倒しそうになりながら、「なんだよ。行けって言ったり、待てって言ったり」と抗議してくる。
だが私はそれを無視して、そいつの自転車を指先で示す。
「お前、それ、たぶん間違えだぞ」
「は?」
「それだよ」私は、自転車を、もっと正確に表現するなら、自転車の『ペダル』を指で示す。「それは、間違いだ」
ここまで説明してやったというのに、そいつはまだよくわかっていないようだった。憎たらしいマヌケな面で、「どうして?」と首を傾げる。
「にぶいな」
「腹立つな」
「お前、幽霊なんだろ。それなのに、なんでペダルを踏むことができる?」俺はアホなそいつにもわかるようにゆっくりと伝えてやる。「幽霊なのに足があるなんておかしいだろ」
「あ」
そいつはようやく納得したようだった。
そして、その直後、そいつは直感によって確信したのかこう言った。
「確かにこれは間違いだ」
それからのことはあまり特筆すべきでもない。
「これで間違いがまた一つ減ったな」
あいつは満足そうにそう言った。
私はその満足げな顔を見ながら、こいつは今どれぐらい間違いを見つけてるんだろう? と疑問に思った。
全部で十個の間違いを見つける。十という数字が多いのか少ないのかわからないが、今どれぐらいの間違いを見つけられたのか、ひいては残り何個見つければいいのか、それを知りたいと感じるのは純粋な心理だろう。
だが私は言わなかった。それを問うのは無粋に感じた。だからかわりに、というわけでもないが、「あばよ」と別れの挨拶だけしておいた。
「ああ。見つけてくれてサンキュな」
あいつも手をひらひらさせて帰って行った。
その後ろ姿は、自転車をゆっくりと立ちこぎする幽霊の姿は、やはり間違っているように見えた。
それと、私はその姿からもう一つの間違いも見つけた。
『幽霊なのに、普通に立ち去るのって間違いじゃないか』と。
「幽霊なら、突然消えたりしろよ」
最後別れ際、私はそう伝えようとした。が、これもやはり言わなかった。それを言ってしまうのはなんだかもったいない気がした。なんでだろうか。憎らしいこいつがさっさとあの世に行くことに私は微塵も心残りはないはずだが、そう思ってしまった。
だから、「またな」と私はその背中を見送った。
「それが事の顛末だ」
私は友人Tに事情を説明し終える。
「なるほどね。だからか」
友人Tはどういうわけか納得したようだった。
「なるほど、ってなんだよ? 何かあったのか?」
すると友人Tは、「いやいや。大したことじゃないんだけど」と笑った。「あいつ、僕の家に来た時、帰り際、傘を盗んでいったんだよね。玄関に立てかけてあるやつ。どうして傘なんか盗むんだろうって思ったけど、そんな理由があったのかって」
「理由もわからず傘盗ませるなよ」私は友人Tがあまりに平気な態度だったので驚いた。「玄関で窃盗する姿見てたのになんで阻止しないんだ」
「だって僕、車椅子だからさ」友人Tは自分の座る車椅子の手すりを撫でた。「とっさに逃げられたら追いかけられないよ」
「なるほど」私はうなずく。「きっとあいつ、それを見越して帰り際に盗んで言ったんだな」
「だろうね」
「でも、今のお前なら、車椅子テニスをやっているお前なら、追い付けるんじゃないか?」
「どうだろう? 普段使ってる車椅子と試合で使う車椅子は全然造りが違うからね。無理じゃないかな」
「そんなもんなのか」私は友人Tの座っている車椅子を見つめる。たしかに、試合の時の車椅子とは全然違う気がする。
「それにしてもよく気付けたね」
「何が?」
「幽霊なのに自転車こいでるのはおかしいってこと」
「ああ」
「すごいよ」
「そんなすごいことじゃないだろ」
「僕は生まれた時から足がないから、きっと『幽霊なのに足があるのはおかしい』なんてこと、気付けなかったと思うよ」
友人Tがそう言って笑うので、私もつられて笑ってしまった。
「でもそのかわり、あいつと思い出話ができたんだろ」
「そうだね。足がないおかげだね」友人Tは車椅子の手すりを撫でた。
「あ、そういやさ」そこで私はふと思う。「お前、中一の時、あいつから革靴プレゼントされたことあるよな?」
「あるね」
「その革靴って今どうなってる?」
「さあ。覚えてないな。捨てたんじゃない?」
「そんなもんか」
「そんなもんだね」
私たちは二人、軽くうなずいて納得した。
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