堀川の家

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堀川の家

 堀川の家は氷川台にある築三十年は経っていそうなファミリーマンションだった。  家族と同居しているとは聞いていたが、道中、高校の時に父親が病気で他界し、今は母親と弟の三人暮らしだと教えられた。母親は介護士をしており、夜勤の今日は堀川と入れ違いで出勤するのだという。まだ保育園児の弟を長時間一人にできず、母親が夜勤の日は残業できないらしい。通りで飲み会の付き合いも悪いわけだった。 「ごちゃっとしてて悪いけど」 「お、お邪魔します」  狭い玄関には小さな自転車が置かれており、靴箱からはみ出た靴の置き場所を圧迫していた。しかし、掃除は行き届いていて、砂埃がたまることもなく清潔感がある。靴箱の上に置かれた、キャップを引き上げるタイプの芳香剤が家庭的だ。  家族写真やクレヨンで描いた絵が貼られた廊下は、十畳ほどのリビングダイニングにつながっていた。中央のソファーに堀川弟の背中が見える。アイスを齧りながら録画した特撮番組に夢中のようで、堀川が「ただいま」と声をかけてようやく顔を向けてくれた。 「……誰?」 「兄ちゃんの会社の人」 「こんばんは、草薙です」  結翔は笑顔を作ったつもりだったが、弟からは少し警戒した様子で「こんばんは」と返ってきた。  弟の礼央(れお)は、堀川を縮めたような子どもだった。顔の造りもだが、その言葉遣いや少し尊大な態度もそっくりだ。 「礼央、飯は?」 「ママと食べたー」 「風呂は?」 「入ったー」 「おー、完璧じゃん」 「そう! カンペキ!」  スーツのジャケットをリビングチェアの背にかけながら、堀川は礼央の親指を立てるハンドサインに付き合っている。  ――こんな堀川、店のみんなが知ったら驚くだろうな。  ルームアドバイザーでも元ホストでもない、プライベートの堀川がいる。母が作り置いていった肉じゃがコロッケを電子レンジにかける後ろ姿だって、生活が感じられてほっこりする。 「なんだよ」 「堀川が意外と面倒見いいのって、弟がいるからなんだなって」 「意外となぁ。次の平日休みは弟に付き添って芋掘り遠足だしな」 「そうなの?」 「イメージと違う?」 「いつもとはね。草むしりの姿を思うと、いっぱい掘り起こせそうだなって思うけど」  二人で囲むダイニングテーブルには、途中にコンビニで買った缶ビールとチューハイ、ホットコーナーの焼き鳥に、堀川の母親の作り置きおかず――肉じゃがコロッケ、セロリと人参のきんぴら、かにかまとオクラのナムルが並んだ。 「足りなかったら、冷凍してる焼きおにぎりがあるから言えよ」 「ありがとう。いただきます」  手を合わせ、ナムルに箸を伸ばす。 「美味しい」 「それから行くんだ? 渋」 「ええ? 野菜から食べて助走しないの?」 「助走? 腹が減ってるうちにメイン食った方が美味いじゃん」 「堀川、好きな食べ物は最初に食べるタイプだ」 「最初に一口齧って、最後に残りを食うタイプ。お前は最後まで取っておきそう」  くだらない会話なのに、言い返せないだけで子どものようにムキになりそうになる。  堀川の自宅で特撮番組をBGMに食事をするなんて不思議な感じだった。ネクタイを取り、ワイシャツのボタンを二つ外した堀川はいつになくリラックスムードで、結翔に心を開いてくれているようでくすぐったい。 「アイス食お!」 「あ? 一日一本って約束だろ? 腹壊すぞ」  いつの間にか、テレビからはエンディングテーマが流れていた。 「まだ食べてない」 「見たっつーの」 「食べてなかったよな?」 「えっ!」  突然話を振られ、結翔は咀嚼途中の焼き鳥を大きいまま飲み込んだ。喉の中を焼き鳥の塊が下りていくのがわかる。 「ごほっ、えっと……」  礼央の顔は結翔に同調を求めている。しかし、堀川と一緒にリビングに入ったとき、確かに礼央がグレープの小さな棒アイスを齧っているのを見た。  ――こんな小さい子の前でリスク冒せない……っ。 「俺も、礼央くんがアイス食べてるの見た気がしたな……」  結翔が曖昧に笑うと、礼央の頬はみるみる膨れていった。 「つまんねーの!」 「こら、礼央! んな嘘ついてっと、閻魔様に舌抜かれるぞ! こわい本読んだばっかだろ」  兄に叱られながら、小さな背中が隣の部屋に消えていく。 「ったく、誰に似たんだか、あのサイズでもう狡賢い」 「ううん。俺がノッてあげられれば良かったんだけど……何?」  つまらない――と言われたのは、少しショックだった。しかし、それよりも堀川がおかしそうに笑っている方が気になった。 「ガキ相手にもブレないっつーか、本当に嘘が言えないんだなと思ってさ」  堀川はテーブルに肘をつき、悪戯っぽい笑みを深くさせた。 「俺のこと、まだ苦手?」 「え?」  突然なんだ――。しかし、これには覚えがあった。堀川に体質がバレたときにされた質問だ。あのときは、一ヶ月も世話になるのに正直に苦手だと言って溝を作りたくなくて、仕方なく嘘をついた。 「ううん、そんなことない」  志田に堀川の仕事を知ってほしいと思うほどには、堀川に好感を抱いている。結翔の体質のことも黙ってくれているし、善いやつだと思う。  しかし、堀川がテーブルの下を覗き込んでハッとした。 「ほんとだ」 「そっ、そこで確認するな……っ!」  顔を赤くして訴えると、堀川は見たことがないほど屈託なく笑った。「悪かったって」と言いながら、なかなか笑い終わらない。 「人の悩みをバカにしてる……っ!」 「ちげーよ。体質を信じてっから、確認して安心してるだけ」  店でもそうだったが、堀川の笑顔を見ると胸をきゅっと掴まれる感覚がする。一瞬見惚れてしまっていた気がして、結翔は誤魔化すように話題を変えた。 「でも、年の離れた兄弟って羨ましいな。可愛いし」 「そうか? 俺としては、年が近い方がいざと言うとき頼れるし良い気がすっけど」 「それは確かに。特に陽翔は頼りになるしな……」 「お前、ブラコンの気があるよな?」  陽翔は何をやらせても結翔より優秀で、顔の造りは同じはずなのに遥かに魅力的なうえ性格もいい。自慢の弟だ。みんなが陽翔を好きになるし、ブラコンだと言われても否定しない。 「でも、俺がこんな体質になったのは双子なことが原因なんだよ」 「え?」  今まで誰にも話したことはない。体質のこと自体、堀川にしか言っていないのだから当然だ。 「もちろん、陽翔が悪いわけじゃなくて、同じ顔なのに出来の悪い俺が原因なんだけど」  陽翔とは生まれてから大学を卒業するまでずっと一緒だった。同じ私立中学を受験し、そのままエスカレーターで進学して大学まで。高校では二人して生徒会に所属し、三年のときには陽翔が会長、結翔は副会長を務めた。  事の発端は、高校三年生の夏だ――。  期末テストが終わったその日、生徒会は休みで結翔も陽翔もホームルームが終われば帰宅するはずだった。しかし、下足室で陽翔を待っていると「用事があるから、先に帰ってほしい」とLINEが入った。手伝おうか訊くと、すぐに終わるから平気だと言う。 「だったら、陽翔の用事が終わるまで生徒会室で待っていようと思った。職員室で鍵を借りたとき、二本のうち一本が陽翔に貸し出されてて、もし生徒会関連の用事なら、陽翔は手伝わなくていいって言ったけど、手伝った方が早く終わるし丁度いいかもって軽い気持ちで」  部屋の内側から鍵がかかっていたのに、わざわざ鍵を使って中に入った。まさか、生徒会室の床で弟と書記係の後輩の男が事に及んでいるとは思いもしなかった。 「もちろん、すぐにその場から離れたよ。お邪魔しました、って感じで……。帰ってくるなり、陽翔からは『変なの見せてごめん』なんて謝られたけど、鍵がかかってたのに開けたのは俺だし、陽翔は何も悪くなくて、謝るのは俺の方で」  はじめて陽翔に嘘をつかれた驚きと、自分と同じ顔が快楽に歪んでいるのを見た衝撃――。しばらくの間、そのシーンが目に焼きついて離れなかった。自分と重ねる想像までしてしまった。  以来、嘘と性的興奮が紐づいた。 「最低だよね、弟のそんな場面を見て興奮したなんて……。男子校だからって恋愛を避けてなければ、こんな体質にはならなかったと思うし。ごめん、堀川にばっかり変なこと話して」  堀川は聞いてくれるから、つい話し過ぎる。  生まれてから陽翔と比べられ続け、嫌なことだったはずなのに、自分でも無意識のうちに陽翔と自分を比べていた。重ねていた。 「堀川には感謝してる。自分でも引くような体質なのに、否定しないで付き合ってくれて」 「草薙は真面目で真っすぐだろ。そんなやつのことを否定なんてしない。つーか、理由聞いて納得した」 「え?」 「真っすぐで真面目。その厄介な体質のことを聞く前から、真面目なやつだなって思ってたけどさ。うちの会社、成績に応じて報酬が変わるだろ? 先輩だって自分の成績に躍起で、新卒の仕事になんて構ってないのに。俺が残業してて、手伝おうかって声かけてきたのなんてお前くらいだったよ」 「だって、いつも残ってたし……」 「成約0のやつがなんで人のこと気にしてんだよ、んな暇あったら自分のノルマのこと気にしねぇとヤバいだろってやきもきしてた。蓋開けてみたら案の定目標未達だし。こいつ、どんだけお人好しなんだよって」  結翔は目を瞬かせた。まさか、そんな理由で突き放されたとは思わなかった。 「……俺、堀川に嫌われてるんだと思ってた」 「は? どこで嫌いになんだよ?」 「仕事ができないから? 堀川の接客を聞いてたら、自分がいかにポンコツかよくわかるというか、イライラさせたかなって」  結翔がそう言うと、堀川は箸を置いてイスの背にもたれた。 「お前には俺みたいな仕事してほしくないし、出来なくて安心してる」  堀川はどこか自嘲気味だった。 「琴乃さんに、俺の言ったことを『本当だったんだ』って言われて、自分はオオカミ少年なんだって痛感した。ホストやってたときは、親父が死んですぐで、親父の借金だなんだでとにかく稼ぎたくてさ。客に金を使わせるためなら思ってもないことだって言ったし、枕だってやった。でも、そういうの仇になんだよな……」 「でも、今の堀川はそうじゃないだろ? 俺は堀川の面倒見のいいところ、見習いたいと思うよ」 「それ、本心なんだもんな……」  堀川は気恥ずかしそうな顔でテーブルに肘をついた。 「草薙、宅建の資格取るつもりなんだろ?」 「えっ、なんで知って……」 「残業してるとき、参考書開いてんのが目に入った」 「ああ、そっか……うん」  見られていたとは気づかなかった。宅地建物取引士の合格率は低く、努力はしているが一度の受験で合格できるか不安で、人にはあまり言っていなかった。 「頑張れよ。合格したらお祝いすっからさ」 「あ、ありがとう」 「仕事できないって言ってるけど、自分にできること探して、真っ当に頑張ってんの見ると俺としては眩しいっていうか。草薙はそのままでいろよ。俺で協力できることはするから」  あんまり肯定されると照れくさくなってくる。堀川の前で何度目だろう。また、顔がにやけるのを止められなかった。 「もう十分助けてもらってるよ」 「もっとだよ」  胸が温かい。 「試験、合格したら一番に堀川に言う」  堀川が応援してくれる。それだけで絶対に合格したいと思う。資格を取得できれば、もう少し堀川と肩を並べられる気がする。  鷹揚に笑う堀川を見ると嬉しくなって、いかにその面倒見のよさに救われているか実感した。 「その、体質のことだけどさ」 「うん?」 「ほら……、弟が男に抱かれているところがきっかけって言うなら、あの日、俺に手でされたの、嫌だったろ?」  訊かれて、体質が堀川にバレた夜を思い出した。久しぶりに嘘をついた反動と初めて人に秘密を明かした混乱で、昂る自分を慰められず――堀川にさせた。 「えっと……」 「今さら謝っても遅いだろうけどさ、悪かった」 「いや……」  嘘をついたところで体の反応でバレる。  結翔は耳を赤くして堀川の表情を伺った。正直に言ったら、呆れられるかもしれない。 「いや……」 「草薙?」 「嫌じゃなかった……。人の手って、あんなに気持ちいいんだね。あとお尻?」 「は……」 「自分じゃ同じようにできないっていうか……」  堀川が息を吐いてテーブルに突っ伏す。 「えっ! ごめん、俺、変なこと言ったよね?」  言ってから、ここまで言う必要はなかったと後悔した。
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