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後悔
いくら狭い店で顔を合わせていても、ほとんど予定が埋まっている堀川とは一言、二言を話す時間もままならない。客の予定が中心の仕事では昼休憩も重ならないし、堀川は書類仕事の一部をヘルプで入った事務方に任せるようになったらしく、残業時間も減って店に一人で残ることもなくなった。どちらかが声をかけないと、二人で食事に行くどころか話す機会さえない日が続いた。
酒に頼って告白するなんて不誠実は、どれだけ後悔しても後の祭だった。
陽翔に相談しようか考えたが、いろいろ訊かれるのが憂鬱で、理由をつけて距離を置いていた。帰国した直後で忙しいこともあって、陽翔も無理に会いにくることはなかった。
ただ、失恋したことを一人で抱えるのはしんどかった。堀川は好きだと言ってくれたが、気持ちを信じてもらえなかった時点で振られたも同然だろう。
――こんな体質じゃなかったら……。
体質のことがなければ、堀川と親しくなることさえなかったのに、そう考えては何度も落ち込んだ。
堀川と二人での外出は二週間ぶりだった。陽翔に新居の鍵を引き渡すため、連れ立って表参道にある芸能事務所を訪ねた。
あいにくの大雨で歩きながらの会話も憚られ、せっかく二人だというのに、少し話しては傘を打つ雨音ばかり聞いていた。
陽翔の事務所に入るなり、堀川が営業用の顔に切り替える。その笑顔さえ、見ていると胸が苦しくなるのだから重症としか言えない。
「こちらがマンションの鍵です。スペアと合わせて三本お渡ししますが、複製されたい場合はまず管理会社にご連絡ください」
「マネージャーと結翔と……うん、足りると思う」
陽翔が鍵の受領書類にサインをする。
「これで終わり?」
「はい、以上になります。来週には入居されるんでしたっけ?」
「一応その予定かな。良かったら堀川くんも引っ越し蕎麦食べに来てよ。結翔も来るし」
「ご迷惑でなければ喜んで」
堀川の笑顔を見ながら、来るつもりはないのだろうと思う。
「今日はもう終わり? この後はご飯でもいくの?」
ぐいぐい訊いてくる陽翔を前に、困惑した堀川と目が合った。
「俺は店に帰るけど、草薙は?」
「俺は……このまま帰るつもりだった」
「そうか」
「えー、サラリーマンって外出のあとは飲みに行くんじゃないの?」
「場合によりますよ」
苦笑する堀川の横で、「そうだよ」と同調しながら少し期待していた自分が恥ずかしかった。自分の浅はかさが招いた結果だが、些細な事でさえ堀川に距離を取られていると思ってしまう。
駅まで一緒に歩きながら、何を話していいかわからなかった。気づけば、貴重な十分間をただ歩くことに費やしていた。
「堀川? 店に戻るなら半蔵門線じゃない?」
「ちょっと、話したいことがある。神宮まで一緒にいいか?」
「うん……」
堀川の顔が神妙で胸がざわつく。
表参道から明治神宮前に繋がる大通り沿いの道を一本内側に入った。ぶつからないよう傘を傾ける所為で、結翔に近い方の堀川の肩が雨に当たって濡れていた。
「今度、売買に異動願いを出そうかと思ってる」
「え? 異動って、もう……?」
「入社して数か月だけど仲介の流れは理解したし、当初の目的は果たしたかなって。売買の方が難易度は高いらしいけど、金もいいし残業も少ないだろ?」
堀川は家族のために働いている。高卒の元ホストでも正社員で雇用され、給料がいい仕事を求めて不動産業界に入ったと言っていた。体質の所為で就活に失敗した結翔と違い、働く目的がある。
「そっか、礼央くんも喜ぶだろうな」
「口うるさいのが家に二人になって、あいつは嫌がりそうだけどな」
同じ会社に勤めていても、店が違うと顔を合わせることはない。会えるとしたら、飲み会やゴルフくらいだ。週に一度の定休日に予定を合わせて会うことも、今の関係では難しい。友達でもないし、結翔は好きだと言って押し倒してくるような迷惑な同僚だ。
「寂しくなるな……」
「だったら、一緒に移んないか?」
一瞬、聞き間違えたかと思った。
「え? 俺が、売買……?」
堀川の顔が真剣でさらに動揺した。
「いや、けど売買の方が目標きついって聞くし、それに、宅建を取ったら事務職に戻してやるって店長が言ってくれてて――」
もしかして冗談だったのだろうか。
「やっぱダメだよな」
堀川が表情を崩すのに釣られて、ぎこちなく結翔の口角もあがる。
「カッコつけないで、今までやって来たみたいに草薙のことも丸め込んじまえばよかったな。べろべろに酔ってるとか気にしないでさ」
「え?」
「でも、お前には駆け引きめいたことはしたくなくて、真向からいったらやっぱ失敗した」
「失敗……? 失敗って?」
「離れたくなくてワガママ聞いてもらおうとして失敗?」
そう言われて瞬きが速くなった。
「この間言った通り、好きなんて数えきれないくらい言われたし、俺だって心にもないことを数えきれないくらい言った。こっちは仕事だし、客が本気かどうかなんてどうでも良かったし、実際、その瞬間を楽しんでる人がほとんどだったと思う。そういうやりとりに慣れてたから、草薙みたいに正直にしか話せないやつって新鮮で気楽だったんだよ。こいつの言うこと全部信じていいんだーって、なんかそう思ったら嬉しくなって、俺も思ってもないこと言うの止めようって、最近は本音で話すようにしてて」
「堀川、何の話?」
「この間言ったのも本音って話。ちゃんと言っとかないと……俺の言葉はたぶん人より軽いからさ。信じてもらえないうえ嫌われる気がして、すげぇ怖くなった」
結翔が好きだと言っても信じてくれなかったのに、どうして堀川はそんな言い方をするのだろう。結翔は堀川の言葉を信じなかったことなんてないのに。
――俺は、どうすれば信じてもらえるんだろう……。
「そんなの……」
「草薙が酔ってたのはわかってるし、別に、あのとき俺に言ったのが冗談でもいい。ただ、俺はちゃんと好きだって言っときたくて」
「……い、今?」
「悪い、気の利いた場所じゃなくて」
雨で人通りが少ないとはいえ、通りにはオフィスやブティックが立ち並ぶ。夕方という時間帯的にも、いつ人とすれ違ってもおかしくなかった。
「俺、堀川のこと好きじゃない……」
浅く上下する胸を押さえながら、結翔は声を絞り出した。
「好きだって言っても信じてくれなかったし、堀川が好きなのは嘘がつけない俺ってこと? そんなの酷いのに、どう言われても期待して……、俺、そんな風に振り回されてもどうしたらいいか……」
堀川なんて嫌いになりたい。
感情に任せて大きくなっていく声を抑えられなかった。顔を真っ赤にさせた訴えに、堀川が狼狽えているのが見て取れる。
案の定、通りすがりの人たちが「喧嘩か?」と囁く声が聞こえた。
「あ、なあ、草薙……」
堀川が何か言いかけたが、体が疼いて立っていられなかった。
当然の反応だ。大嘘をついたのだから、体が強く反応することはわかっていた。
呼吸を乱してしゃがみこむと、すぐに顔を覗き込んできた堀川と目が合った。躊躇わず、結翔は堀川の手首を掴んだ。傘からはみ出たスーツの腕に雨の染みができる。
「手、貸して……っ」
「草薙? えっ」
結翔は掴んだ手を強引に自分の下肢に押しつけた。昂った性器がスラックス越しに堀川の手に触れる。
「ねぇ、これなら信じてもらえる?」
すぐに手は解放したが、堀川は固まったままだった。
羞恥と申し訳なさで消えて無くなりたくなる。
「どうしたら好きだって信じてもらえるんだろうって悩んだ……。お酒の勢いで迫ったのはごめん。でも、冗談で好きなんて言わない……。あの日勃ってたのは嘘じゃなくて、俺の体はおかしいから嘘ついても勃つけど、好きな人にあんなキスされたって勃つ……」
思わず視界が滲む。
「言葉は信じられなくても、体なら信じてくれる?」
息が切れる。早く返事をもらえないと、濡れた地面に膝をつきそうだった。
「あの、大丈夫ですか? 救急車呼びますか?」
座り込んだまま動かない二人に、通りすがりのサラリーマンが声を掛けてくれた。
「いえ、大丈夫です。もう移動しますから」
傘を畳んだ堀川が、結翔の傘を持って肩を貸してくれる。
「とりあえず、場所移そう」
雨粒の跳ねる舗道と、その跳ね返りで汚れていく堀川のスラックスの裾。片側二車線の大通りを車が雨水を巻き込んで走っていく。
鞄で前を隠しながら、結翔は堀川に支えられて駅前のビジネスホテルまで歩いた。
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