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外出
「お世話になっております。私、カリテ不動産の草薙と申します。山田様のお電話でお間違いないでしょうか? 実はお家賃の件でお電話差し上げたんですが――」
家賃というワードを出すと、滞納を自覚している半数の客は「今忙しい」と言って電話を切ろうとする。家賃の督促は初めてではないが、何軒やっても気が重い。
「あっ、山田様……っ」
「貸せ」
「あ!」
「山田様、お世話になります。ルームアドバイザーの堀川と申します。本日はお家賃の件と合わせて、山田様にご紹介したい物件があってご連絡いたしました」
隣で聞いていて開いた口が塞がらない。
――借り替えの提案って、タブーじゃないか?
結翔の言いたいことを察してか、堀川は電話を続けながら、口元に人差し指を立てる。
家賃を滞納している客は、ゆくゆくは家を出て行ってもらうことになる。しかし、大家としても空き部屋を作りたいわけではなく、不動産仲介会社が客に賃貸住宅の借り替えを提案するのはマナー違反とされている。
エグイ仕事ぶりに電話を終えた堀川に詰め寄ると、堀川は「良いんだよ」と事もなげに言ってみせた。
「空いた部屋は別の客に紹介するから」
「別の客?」
六月は不動産業界の閑散期にあたる。入社や入学、人事異動が落ち着き、人の移動がぐっと落ち込む時期で、そう簡単に部屋を紹介もできない。
「前職の客。ちょうどこの部屋の近くの病院で看護師やってんだよ。前、近所の小学校がうるさくて、当直明けなのに眠れないって愚痴ってたことがあってさ」
確かに、部屋の周辺に日中の睡眠を妨げるような施設はない。おまけに大通りが近く、駅前からの夜道も明るいはずだ。
「いつもそんな風に仕事取ってるのか?」
「使えるもんは使ってるだけだろ」
そう言われてはぐうの音も出ない。
「んなことより、ちゃんと私服は持ってきたか?」
「え、うん。カジュアルっていうからジーンズとTシャツとかだけど……」
来店予約のない午後は、大家へ営業にまわる予定になっていた。
昼食を終え、結翔と堀川は私服で目当てのエリアを訪れた。
「私服で営業してるのか?」
「平日の日中にこの恰好でふらついてると、有り難いことに学生と勘違いしてくれんの。で、その辺で立ち話してるおばちゃんたちに声かけて、『家探してて、あのアパートの大家さんと話せないですかね』っつって繋いでもらう」
「そっ……」
実際、目をつけた2LDKアパートの大家を紹介してくれたのは、ご近所に住む女性だった。結翔と堀川がルームシェアする家を探していると勘違いして。
「嘘はついてないだろ。俺は学生なんて一言も言ってないし」
「いや、そうかもしれないけど」
「スーツ着て真っ向から営業しても、警戒されて相手にしてくれないだろ。裏技。盗むんだったらどーぞ」
「……どうも」
確かに、結翔がスーツ姿で営業に出たときは多くが門前払いだった。結翔は他者に警戒されづらい容姿のはずだが、それでも大家までたどり着けたのは十軒に一軒程度。たどり着けたところで、どこも他の仲介会社を利用していると断られたのだが。
「すみません、こんにちは」
堀川が愛想よく声をかけたのは、アパートの裏にある平屋から出てきたおばあさんだ。杖はついていないが、立ち姿の背中は曲がっている。
「何か御用ですか?」
「実は裏のアパートのことでお話を聞きたくて」
堀川は結翔が信じられないフランクさで大家にぐいぐい距離を詰めていく。あれよあれよという間に、気づけば庭に面した居間に通され、氷の浮いた麦茶をいただいていた。
「悪いけど、アパートのことは、昔から付き合いのある不動産屋さんに全部任せてるから」
「全部って、入居者の募集以外に何を任せてるんですか? 入居者の管理とか原状回復工事とか?」
頷く女性に、堀川が眉根を寄せる。
「俺らはよその会社の営業だし信用ないかもしれないけど、ちゃんとセカンドオピニオン的なの取った方がいいですよ。大家さんとこのアパート、この辺の相場からしたら、ぶっちゃけ安すぎるし。なあ、草薙?」
同意を求められて慌てて頷いた。
「そう言うけど、この春も満室にならなかったし、不動産屋さんからは礼金をなくしたらどうかって提案されてるのよ?」
「えー、絶対そんな必要ないですよ!」
堀川はそう言い切ると、リュックからタブレット端末を取り出して女性の方に向けた。
「これ、この辺りにある近い条件の物件の一覧ね。家賃相場は十三万ちょっとくらい。大家さんとこのアパートは十二万円でしょ? あんま下げると何かあるのかって思われますよ」
「何かって?」
「心理的瑕疵あり物件とか、入居者に迷惑な人――ヤクザとかゴミ捨てらんない人とか夜中に騒ぐ人とか、そういう人がいんじゃないかって疑われますよ。安いと警戒されるのは割とあることだし、警戒せずに入居する人は、その辺にルーズな人が多かったりして、アパートの治安も下がりかねないし」
地域密着型の不動産仲介会社は、インターネットに掲載されていない秘蔵物件を抱えており、客からすれば掘り出しものが見つかることも多い。しかし、情報の発信先が少ない分、条件を下げなければアパートの借り手がつかなかったりする。
「大家さんにかける負担は、うちと契約してもらったところで今と変わらないはずだから。アパート、満室にしてみせますよ。な、草薙?」
営業スマイルのまま顔を向けられて戸惑った。
空室がいくつもあるアパートを満室にするなんて、結翔には難しい。しかし、笑顔の下に圧力を感じ、結翔は「は、はい。満室にしてみせます」と嘘をついた。
途端に脈が速くなり、おかげで正座していた脚をもぞもぞさせて座り直すはめになった。
「とはいえ付き合いもあるでしょうし、気が向いたら電話してください。それより――」
返事に困っている大家を待たず、堀川が庭先を指差した。
「雑草、かなり伸びてきてますね」
「え、ああ。春先に業者に来てもらって全部抜いてもらったんだけどね。温かいと伸びるのが早くて。なんとかしたいんだけど、腰も悪いし、自分じゃなかなかねぇ」
犬小屋がある大きな柿の木の隣には、コンクリート塀に沿って花壇が設けられていた。6月の陽ざしの下、アジサイが紫や青の丸いボール状の花を咲かせている。どうやら庭で四季を楽しみたいようで、キンモクセイ、ツバキ、コデマリもそのあとに控えていた。
樹木が中心の庭だが、物干し竿が置かれた中央の足元は、堀川の言う通り雑草が伸びきっている。
「犬がいると除草剤も撒けないですよね。俺らでむしっていきましょうか?」
突拍子もない提案に大家が目を丸くする。結翔も堀川の横顔を凝視した。
「せっかくのご縁だし。草むしったくらいで、契約してくれなんて迫ったりしませんから。俺らのこと利用した方がいいですよ」
堀川はそう言うと、大家の了承をとりつけて庭におりた。
「あ、もしよかったら、草むしりの前にそいつにトイレ貸してやってくれません? ここに来る前、腹痛いって言ってて」
「えっ」
「あら、そうだったの? 早く言ってくれればいいのに、縁側の突き当りだから」
「あっ、その、腹痛はな……あの、お借りします」
結翔はハンカチで前を隠し、前屈みでトイレに駆け込んだ。これ幸いではあるが、堀川は結翔の変化に気づいたのだろうか。
――今のは、そんなに大きい反応じゃなかったのに……。
嘘の度合いによって体の興奮状態が変わる。今回は堀川に同調した程度だったから、人様の前で失態を犯さずに済んだのかもしれない。無心になって素数を数えていれば、勃起が収まるくらいだった。
しばらくして庭に戻り、先に始めていた堀川に続いて結翔も草をむしった。すべてをむしるのは難しく、今回は物干し竿の下だけという話になったらしい。軍手をはめ、片手にビニール袋を持って青々と伸びた草を引き抜く。
「もう抜けたのか? えらい早かったな」
「え? 草? まだ全然だけど……」
「ちげーわ。お前、勃たせてただろ」
「ひ、人の家でそんなことしない……っ」
潜めた声で堀川に噛みついたが、堀川は「あっそ」と感心も薄そうに息を吐いた。しかし、助け舟を出してくれたのは間違いない。
「でも気遣ってくれたのは、ありがとう」
「どーいたしまして」
「けど、よく引き受けるの? 草むしり」
「はあ? するわけないだろ。時間がいくらあっても足りねーわ」
確かに、堀川の手つきは不慣れだ。結翔の方がまだ器用に草を抜いている気がする。高校の時に、生徒会のボランティア活動で地域の清掃活動をした程度の経験しかないが。
ということはやはり、結翔をトイレに行かせるために草むしりを買って出たのか。
――とんでもなくいい奴なんじゃ……。
一人感動していると、「つーかさ」と結翔を凍りつかせるような低い声が飛んできた。
「アパートを満室にするって約束のどこに嘘があったんだよ?」
「あ、いや、嘘っていうか……。堀川なら空室率30%のアパートを満室にできるかもしれないけど、俺じゃそんな大それた約束できないなって……」
「俺だって、すぐできると思ってねぇよ。大家のおばちゃんは満室にしたいし、俺らは客に紹介できる手駒は多い方がいい。お互い困ることはないんだし、満室になるまで客に紹介し続ければいいと思ってるだけ。一瞬で部屋を満室にする方法があるなら、俺だって知りてぇわ」
ぶつくさ言いながら作業を再開する堀川に、結翔はただ感心していた。飲み会のあと家まで送り届けてくれた日から感じていたが、堀川は面倒見がいい。その面倒見の良さが仕事にも発揮されている。
「自分じゃ言い切れないなら、俺ならどう言いそうか考えて言ってもいい。この一ヶ月のうちは、何言ったって嘘になんないようにフォローしてやるし。客が増えてくると、そのうち告知事項のある物件を扱うことも出てくるぞ」
告知事項のある物件というのは、俗に言う事故物件や反社会的勢力が居住している物件を意味する。不動産業界に入ったら、一度は仏とヤクザに遭うと言われているくらいだ。そこまで珍しいものでもない。
「……頑張る」
草むしりを終え、結果的にアパートの仲介契約を取り付けることができた。
駅までの道を歩きながら、堀川はさっそくアパートを紹介したい客にメールを打っていた。5日ほど前に店頭の募集チラシを見て入店した夫婦だ。そのときは一歩の差で目当ての物件がなくなってしまい、希望に添った物件を紹介できなかった。
店長からは、堀川の口八丁手八丁の接客が勉強になると言われたが、少し一緒に働いただけで、堀川の成績が客への親身な営業活動の結果だとわかる。枕営業なんてしている気配もなかった。
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