昼、深く

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「どうした、食べないのか?」彼女はそう問いかけ、自分は温かいコーヒーをひとくち飲んだ。  平日の昼下がり。閑散とした店内は空席ばかりが目立ち、静止した空気に流れを作るのは店員のいそいそとした足取りだけだった。  十一月も終わりに差し掛かろうという頃。長く影を落とす陽の光は、窓を通り抜けることで鋭さを増していた。その色の濃さが、テーブルに並んだ食事を作り物のように見せている。どれも彼女が、遠慮する少年をよそに注文したものだった。 「食欲が、無いんです……」 「そいつは困ったな。確かに極度の空腹状態では胃がうまく働かなくなるそうだが……固形物が駄目なら温かいスープでも注文しようか」  店員を呼ぼうと手を持ち上げる彼女を少年が慌てて止める。 「どうした?」彼女は訊ねた。 「すみません、嘘なんです」 「嘘?」彼女はわざと察しの悪いふりをした。 「三日もなにも食べてないってことがです。お姉さんもわかってたんじゃないんですか?」  彼女は降ろした手を緩めた口元に引き寄せると、「きみの口から直接聞きたかったんだよ。事情を話してくれないか? まあ、あっちの連中を見れば大体の予想はつくけどね」  そう言って彼女は窓の外にちらりと視線を送った。通りの向こうでは、相変わらず例の三人組がこちらの様子を物陰から窺っている。 「あいつらが仕掛けた遊びなんだろ」  少年は頷くと、「僕、あいつらにいじめられてるんです」 「どれぐらいの期間?」 「入学してすぐだから、もう半年ぐらいになります。夏休みのあいだもずっと……僕のとこ進学校だから、毎日のように夏期講習もあったりして」 「勉強そっちのけでいじめ三昧か。暇な連中だな」 「あいつら三人とも家がお金持ちで、将来の心配とかしなくていいみたいです」 「たしか、きみたちの学校はエスカレーター式だったね。そんなところも関係しているんだろうが……約束された将来が待ってると思い込んでるなんて、彼らは余程の大物か楽観主義者なんだろうな」  彼ら三人の考えには、親の価値観というものも深く関係しているのだろうが、彼女はそこまで言及するつもりはなかった。少なくともこの場において、これは子供同士の問題なのだ。  それでも彼女は、大人という立場にありながらこの件にますます首を突っ込みたくなっていた。 「きみの親御さんはこのことを知っているのか?」  少年は首を横に振ると、「僕の家には父がいなくて、母が働いて生活を支えてくれています。学校には奨学金で通ってるけど、このままいじめが続いて成績が落ちるようなことがあったら……」  少年はテーブルの上で小さな両手を握りしめた。傷ひとつないきれいな手だ。いじめのバリエーションには直接的な暴力はふくまれていないのかもしれないが、野蛮ではないからと言って陰湿な嫌がらせが許されるわけではない。 「お母様に心配をかけたくないという気持ちはよくわかるよ。わたしもそうだったからな……それで? きみはこれからどうするつもりなんだ?」 「どうするって?」 「いまの状況をずっと続けていくつもりか?」 「それは……」 「あいつらのいいようにされて、それと引き換えに得られるのは真っ暗な学校生活とぼろぼろになった未来だけだが。きみはそれでもいいのか?」  少年は俯いていた。それからテーブルの天板に視線を注いだまま、ぽつりとこう言った。 「もう、馴れましたから……」 「そうか」  彼女はそれ以上、なにも言うつもりはなかった。  ここまでか。そう思いながら、手にしたコーヒーの油分が浮いた表面を見る。  彼女は少年に対して、必要以上に手を差し伸べるつもりはなかった。しかし彼の行動を最後まで見届けたいとも思っていた。  それは少年のことを心配する善意に根ざした気遣いでもあったが、同時に彼の行動を最前列で見物したいという好奇心によるものでもあった。  必要とあらば、彼女がすぐにでも三人の悪童どもを懲らしめることもできる。だがその行動でもたらされる結果は、本来訪れるべきものとはかけ離れた恣意的なものになってしまうだろう。あるいは、今後もっと悪い事態を招いてしまう可能性だってある。  そのため、いまここで最も重要なのは少年自身の決断だった。彼の答え次第で、たとえこの話が何事も無く終わったとしても、彼女はそれを甘んじて受け入れるつもりだった。
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