昼、深く

5/8
前へ
/9ページ
次へ
 彼女が立てた計画は至って単純だった。  レストランを出て彼女の宿泊先に行き、悪童たちから見えるようにエレベーターへと乗り込む。適当な時間を過ごしたら、今度は一緒にホテルから出てくる様子を見せる。  ただそれだけだった。 「本当にこんなことで大丈夫でしょうか?」 「言っただろ、急ごしらえの計画だって。それでも、うまくいけばあいつらはきみのことを見直すかもしれない」 「もしも……うまくいかなかったら?」 「どうだろうな。これを笑い種にいじめがエスカレートするかも」 「そんな!」 「おいおい」少年の悲鳴に彼女がベッドの上で身を起こす。「責任転嫁するつもりはないが、最終的にこれをやるかどうかを決めたのはきみだろ。腹を括ってくれよ」 「でも……」 「大丈夫だよ」そう言って彼女はうつ伏せになると、ベッドの上で頬杖をついた。「いずれにせよ、ホテルから出てきたところを見ればあいつらはまず動揺するはずだ。きみはそのとき、相手に思いの丈をぶつけてやればいい」 「僕は、なんて言ったら?」 「さあね。そこはわたしなんかより、きみのほうがずっとよくわかっているんじゃないのか? いっそひとりずつぶん殴ってやったほうが効果があるかも」 「そんなことできませんよ」 「たとえばの話だよ。ただひとつ確かなことは、そのときにどんな行動をするのかはきみ次第ってことだ」  俯き続ける少年を見かねて、彼女はサイドボードに手を伸ばしてリモコンを取った。テレビをつけ、適当なチャンネルに切り替える。 「少なくとも、考えるだけの時間はまだ残ってるよ」  テレビの中では海外の白黒映画が流れていた。弦楽器が奏でる音楽を背景に、出演者やスタッフの名前が筆記体で次々に映し出される。 「ちょうどいま始まったみたいだな。これが終わったらホテルを出よう」 「はい……」  少年の言葉には不安が混じっていたが、彼女はひとまずその答えで満足することにした。 「あの、お姉さん」 「なんだい?」 「訊いてもいいですか?」 「どうぞ」 「どうして僕にここまでしてくれるんですか?」 「さっきと同じ質問だね。そういえば答えるって言ってたっけ……」彼女はそう言ってリモコンを置くと、ふたたび仰向けになった。髪はベッドの上を広がるに任せ、両手の指を殉教者よろしくみぞおちのあたりで組む。「結論から言えばきみのためじゃない、これはわたしのためなんだ」 「お姉さんの?」  彼女は頷くと、「話せば長いから省略するが、今日まで色々な目に遭ってきてね……わたしの人生の半分は、人に裏切らた経験からできているようなものなんだ。残り半分の構成要素は落胆で、最後に希望をひとつまみってところか。つまり、それがわたしの人生を作るためのレシピなんだ。簡単だろ?」  少年はなにも言わなかった。天井の一点を見つめる彼女の視界の端で、ソファに座った彼が身を乗り出してくるのが見えた。彼女は続けた。 「そうした過程でわたしが導き出した結論のひとつは、人の善意なんかに期待すべきではないってことだった。かといって、世の中のすべてが悪意でできているわけでもないってこともわかっているつもりだ。こんな考えには共感できないかもしれないけど、わたしはそう思っているんだよ」 「わかります」少年はかぶりを振った。「僕も毎日悪意に取り囲まれてますから。けど、善意があるのも知ってます。だって、お姉さんがそうでしょ?」 「それはどうだろうな。利己的な考えを悪意と定義するなら、わたしこそまさしくそうだから」 「お姉さんが?」  彼女は頷くと、「わたしはね、見極めてみたいんだ。たぶん……そう、可能性みたいなものを」 「可能性、ですか?」 「ああ。わたしが毎日している行動のひとつひとつ、その結果で善意と悪意のどちらが生まれるのか、その可能性をね。正直なところ、わたしは世の中なんてくそくらえだと思ってる人間でね」 「それも、わかります」  彼女は少年を見た。彼に向けた視線に、疑いの思いが混じっていることを承知で。  しかしその疑念には触れず、彼女はこう続けた。 「同時にこんなことも考えてるんだ。どうしてこんなひどい世の中で、人間は笑って生きていられるんだろうか、とね。単にこんな世の中にいるせいで頭がおかしくなっているのか? それとも、自らの犠牲も厭わず誰かを助けられる人間が一定数はいると信じているからか? わたしだってその考えに縋りたい。希望はそこにあるのかもしれないからね。世の中まだまだ捨てたもんじゃないって思えるような、わたしの人生における最後のエッセンスである希望が。だから、わたしはそれを見極めてみたいんだ。おおげさに言えば、きみを助けたのも実験みたいなものなんだよ。わたしが満足できる答えを見つけられるかどうかの」  彼女はそこまで語り終えると、静かに目を閉じた。しばらく沈黙が続く。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

24人が本棚に入れています
本棚に追加