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「僕は……希望はあると思います」少年は言った。
「わたしもそう思ってるよ」彼女も目を閉じたまま答える。「でも、この希望というのが厄介なんだ。希望があるから、人間はしなくてもいいような期待をしてしまう。わたしもそう……だからこうして、いつまでもぐずぐずとふてくされた態度のままでしかいられない。こんな喋り方しかできないのも、そんな希望が存在する世の中を見下しているからなんだよ。誰かに媚びたり甘えたりするのも、とどのつまり相手の善意を期待しているからにほかならないからね。そうは思わないか?」
しばらくのあいだ、室内はテレビから流れる音だけで満たされた。古いマイクで収録されたであろう役者の声はひび割れており、外国語というより別の惑星の言語のようでさえあった。
「話は終わりだ。結局のところ、巻き込まれだのはわたしじゃなくてきみのほうかもしれないね」
「そんなこと……でも、どうなんでしょう。お姉さんの言うこと、僕には難しくてよくわかりません」
「わたし自身、そう思ってるよ」
「でも僕は、お姉さんはお姉さんなりに戦ってるんだと思います」
「ありがとう」
気休めだ。彼女は感謝をおぼえると同時にそうも思った。
善意に期待しないということは、言動の裏にある悪意に敏感になるということでもある。ときとしてそれは自意識に増幅され、ありもしない被害妄想さえも生み出してしまう。
逆説的に、これは相手の善意ではなく悪意に期待してしまっているということにほかならない。
彼女自身そのことは承知していた。承知しながらも、その思考回路を断ち切ることができなくなっていた。
「してみる?」
彼女が目を閉じたまま言うと、少年が息を呑むのが聞こえた。
「なにを、ですか?」少年の声がうわずっている。その響きだけで、彼女の意図を充分に理解していることがわかった。
「あの三人が、きみには一生できないと思っていることだよ。わたしと一緒に。嫌じゃなければだけど」それからこう付け加える。「もしかしたら、それできみに自信がつくかも」
少年はなにも言わなかった。傍らのソファからは、ただ繰り返される浅い呼吸が聞こえてくるだけだった。映画から流れる音も、やけに大きく耳に響いてくる。
それから少年はこう答えた。
「やめておきます。誘ってもらえて嬉しいけど、僕の決心なんかのためにそこまでしてもらうことはありません。それは、お姉さんを利用することになるから」
「そうか」彼女は言った。「それが賢明なのかもな。困らせてしまって悪かった。よく答えてくれたね」
「お姉さんが嫌だとか、そういう理由じゃないんです」
「わかってるよ」
「街で声をかけたのも、お姉さんがきれいだと思ったから」
「そう……嬉しいよ」
彼女自身、その声はいやというほど平板なものに聞こえた。それでも胸の奥は大きく高鳴っていて、彼女はそれが表情に出ないよう必死になっていた。
気持ちを落ち着けようと静かに深呼吸を続けていた彼女だったが、その努力はこちらに近づいてくる少年の気配によって打ち消されてしまった。
ベッドに敷かれたマットレスの端が深く沈み込む。同時に少年の気配が濃厚になった。
彼女は少年の接近に気づかないふりをした。彼もまた、彼女が自分の気配を察しているという事実から目を背けているのかもしれない。
かたく閉じたまぶたの向こうに広がる光景が、彼女には手に取るようにわかった。
いま、少年はベッドの上に手と膝を片方ずつ置き、身を乗り出すように彼女の顔を覗きこんでいる。それから空いているほうの手を持ち上げ、彼女の身体へと近づけてきた。
彼女の上半身、白いセーターに包まれた形の良い胸に。
触れ合うまで数センチの距離で少年の動きは止まったが、彼女はその手の平から発せられる熱のようなものを感じ取っていた。
そのことに、あれだけ高鳴っていた鼓動が落ち着きを取り戻していく。この規則正しい拍動が、空気を伝わり少年の手の平に届くだろうか。
彼女は街角で声をかけられたときに握った少年の手の柔らかい感触を思い出した。いまその手には、悪意が芽吹きつつあるのかもしれない。
少年がこれからどのような行動を起こすのか、しかし彼女にとってはどうでもいいことだった。
すべてはなるようになる。
それを見届けることこそ彼女がもっとも望んでいることであり、たとえどのような結果になったとしても構わなかった。
なせなら……
だしぬけに少年は手を引っ込めると、枕元にあるリモコンをつかんだ。彼女はそれを視覚以外の感覚で察していた。
少年がリモコンをテレビに向けると、映画の音がみるみる小さくなり、最終的にはなにも聞こえなくなった。
少年はまた自分の身体に手を伸ばしてくるだろうか。反射的に身が強張ったが、少年はベッドから身を起こし、定位置となったソファへと戻っていった。
それから、室内にはなんの物音もしなくなった。
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