昼、深く

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 このあと、少年はいじめっ子たちに立ち向かうのだろうか。  それとも、尻尾を巻いて逃げ出すのだろうか。逃げ出したあと、またつらい日常が続くと知っていながら?  レセプションカウンターの向こうから支配人が会釈してくる。一瞬、その目に下卑た光がきらめくのが見えた。もっとも、それが彼女の勘違いでなければだが。  悪意は、どこにでもある。  支配人が小児性愛の嫌疑で彼女を断罪しないのは、このホテルの上得意をひとり減らさないためだ。そのために彼は波風を立てないよう努めてくれるし、必要とあらば後ろめたい秘密を共有してくれる。  だがそれは、けして客を守るためではない。  料理人が自らの料理に毒を入れないことや、客を乗せたタクシーの運転手がアクセルを踏み込んで崖下に飛び降りないのと同じ理由からだ。  誰もが自分の仕事や生活を守るために行動しているに過ぎない、彼女はそう考えている。  しかしそうして人々が日常の中で必死に抑えている悪意が、あるときふと漏れ出すようなことがある。それは誰もが持つ人間の性で、呼気のように、あくびのように、あるいは嘔吐のように止める手立てのないものだ。  彼女はそうも考えており、彼女自身もまた、そんな大多数の人間と同じだと思っていた。そしてあの少年もまた。  なぜなら……  そう、なぜなら彼女は少年がいじめっ子たちに立ち向かうかどうかという結末以外についても考えていたからだ。  それ以外の可能性……つまり、あの少年こそがこの出来事の中でもっとも悪意ある人間だという可能性を。  実は少年といじめっ子たちは結託しており、誰かに悪質ないたずらを仕掛けてやろうと考えていた。そうして運悪く標的として白羽の矢が立ってしまったのが彼女だった。  悪意に期待を寄せる彼女にとっては、むしろ少年が首謀者であることは願ってもない結果だった。もしもこの考えが的中していたら、彼ら四人は立ち去る彼女の背中に向けて嘲笑を浴びせているかもしれない。  もって生まれた、あるいは後天的に育まれた彼女の猜疑心はそんな妄執を生んでいた。  振り返れば答えがわかるかもしれない。だが、彼女は振り返らなかった。  なぜなら真実がどんな形であろうと、どうでもよかったからだ。  もしも少年が彼女に語ったとおり本当にいじめられていたのであれば、少なくとも彼の行動を後押しできたことに対する自尊心を満たすことができる。  そうでなかったとしても、彼女の行動理念でもある厭世的な持論を補強してくれる。  なので結果はどちらでもよかった。  だがそれ以上に、彼女は真実を知ってしまうことへの恐怖から振り返ることができなかった。  少年が当初の印象通り善意ある人物であれば、彼女は自分の浅ましさを痛感してしまうだろう。  逆に彼が悪人であれば自分が身を置いている世界の醜さがますます際立ってしまう。  あるいはそこには、彼女が想像もつかないような真実が存在している可能性さえある。そんな考えに至るにつけ、彼女は自分でも気づかないうちに足がすくんでいた。  真実がどんなものであっても、彼女はそれを突きつけられることを恐れた。  振り返らないのではなく、振り返れなかったのだ。  指で弾いたコインが空中を回転しながら舞う。彼女の頭にそんなイメージが浮かぶ。  真実を知るということは、表と裏どちらかを確かめるため、放り投げたコインをつかむことに似ているのかもしれない。逆にコインをつかまなければ、真実はいつまでも定まることはない。  昼、深く。  彼女はコインの表と裏のどちらが出るのかを見届けないまま、足早にエレベーターへと乗り込んだ。
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