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【三】そして、秋の夜長に
部屋から出てきたマリは一直線に和泉に歩み寄る。
「あんたがしつこい男やっていうことはよく解ったわ。でも、これ以上はホンマにつき纏わんといて。迷惑」
和泉の眼前に人差し指を突きつけ、マリは言う。和泉はそっとその指を掴んで、胸元まで下ろす。
「少しくらいしつこい方が、すぐに諦める男よりずっといいよ。諦めるってことはチャンスを捨てるってことだからね。それに、しつこさはいい刑事の証でもあるのさ」
マリは和泉の手を払いのけた。ちょうど上がってきたエレベーターから降りてきたカップルが、怪訝そうな目でこちらを見やる。そのカップルと入れ替わるように、マリはエレベーターに乗り込んだ。閉ボタンを押されたが、和泉も素早く乗り込む。
「あんた、何が目的なん?」
「もちろん、きみを逮捕したいと思ってる。五年前には逮捕できなかったからね」
「たかがハコ師に、何を執念燃やしてんの。もっと悪い奴はいっぱいいるやん」
「もっと悪い奴も捕まえるのは当然だけど、自分の目の前から逃げていった女性を、まずは捕まえないとね」
エレベーターが一階に着く。マリは先に歩き出し、「あのときも言うたけど、私、やってへんから。足を洗ったんやから」と振り返らずに言った。
「そうだね。証拠を見つけられなかった僕の敗北だね。それは認める。じゃあ、せめて今日、大阪に来た理由を教えてよ。そうだな、どこかこのあたりで、きみのおすすめのバーにでも行って、二人でゆっくり話をしないかい?」
「おすすめのバーなんかないわ。私が、バーなんか行けるような生い立ちじゃないことくらい、あんた、知ってるやろ」
和泉より一歩先を行くマリは、昼間よりもずっと、人を寄せ付けないオーラを放っている。《私のことを何も解ってくれていない》と、そんなふうに拒絶の意を示されたときは、デートのお誘いなら引き際のタイミングだ。ホテルを出たところで和泉はさりげなく鴨林を探すと、彼は立ったまま、どこかで買ってきたらしいテイクアウトのたこ焼きを頬張っていた。呑気だな。
「解ったよ」和泉はマリの背中に声をかける。「今日のところは、デートは諦める。でもきっと、きみを捕まえてみせるからね」
マリは頭だけちらりと振り返り、
「後悔すんで」
と言った。冷たい声だった。そして、どこか哀しさを纏う声だった。
日の落ちた大阪の街は、煌びやかなネオンに彩られている。新型コロナウイルスの感染拡大により、夜の街から人が消えた時期もあったが、緊急事態宣言の解除とともに活気が戻ってきていた。感染拡大が再発しないかという不安の一方、誰かが買い物をし、飲み食いをすることで、誰かの生活が成り立っていくものだから、街にはやっぱり活気が必要だとも思う。お金が全てではないが、お金がないと生きていけないのがこの社会だ。
マリから二十メートルほど離れて、和泉は梅田の駅前を歩く。マリはお金によって子どものころから人生を狂わされてきた。両親が作ったギャンブルの借金のせいで苦しい生活を送った。両親は借金もあったが、収入もあったために生活保護も受給できなかった。自分の生活に必要なお金は自分で工面するしかなく、スリを覚えた。同情する点もあるが、しかしだからと言って犯罪を許容するわけにはいかない。だが――もし、マリが本当に足を洗っていたのだとしたら。和泉には珍しく疑心が沸いていた。僕は今、間違ったことに囚われ、間違った行動をしているんじゃないか――?
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