プロローグ

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 十月三十日。午前七時。  警視庁捜査一課殺人犯捜査七係の捜査員である和泉(いずみ)(しゅう)が、大阪府警に逮捕されたという連絡を受けたとき、西岡(にしおか)夏帆(かほ)は自宅の台所で、朝食用のところてんの酢水を切り終えたところだった。 「ちょっと、一体どういうことなのよ? てか、なんで大阪なのよ。あんたたち、勝手に何してたの!」  夏帆が矢継ぎ早にまくし立てる。ただでさえイライラしてるというのに、まったく、面倒なことをしてくれたわね! 電話の向こう側にある、七係最年長のベテラン刑事、鴨林(かもばやし)幸太郎(こうたろう)の困り顔が目に浮かぶ。 《いや、まあ、こんなことになるとは思いもせんかったから――》  殺人犯捜査七係は金町で起きた殺人事件の捜査で、亀有署に出向中だった。三日前に被疑者は逮捕され、自宅待機中の夏帆を除く七係の刑事たちは、裏付け捜査に当たっているはずなのに、どうして関係ない大阪が出てくるのだ。 「で、和泉は何の容疑で逮捕されたの? 女の子にちょっかいかけて、迷惑防止条例違反とかで捕まったんじゃないでしょうね? だったら、自業自得なんだけど」  そうでなければいいと思いつつ、しかし日頃の、和泉の女性に対する軽い言動を見ていると、あながちありえない話ではない。むしろ、お灸をすえてもらった方がいいかもしれないが、超ポジティブ思考な彼にとっては効果がないかもしれない。  だが、鴨林は重い口調で、《いや、それが――殺しやねん》と言った。 「殺し? どういうことよ? 勝手に二人で大阪まで行って、和泉が殺しの容疑で逮捕って、どういうことよ? ややこしいことになったのは鴨さんだって同罪よ、解ってる?」  いくら年上でベテランでも、こういうときは容赦しない。夏帆は七係の係長代理で、階級は警部補。和泉も鴨林も、立場的には夏帆の部下に当たるのだが、警察は年功序列が根強い組織だ。だから実際には勤続年数がものを言う。ただ、夏帆としては上司部下や先輩後輩の関係がきっちりしていることと検挙率の因果関係はないという持論から、七係ではそうした無意味な上下関係は不要の方針を貫いている。  しかし、とにかく和泉が殺人事件の被疑者だなんてありえない。まだ何も解らない段階だが、それだけは確信を持っていた。  だが、現実に逮捕されているとなれば、事態は急を要する。 「逮捕されたのは何時?」 《ついさっきや。わしの目の前で連れていかれたから》 「どうして阻止しないの!」夏帆は怒鳴りながら、時間を計算する。警察が被疑者を逮捕したあと、検察に送致されるまでの四十八時間が勝負だ。いつもなら、この間に被疑者の容疑を固めて検察に送致する側だが、今回は逆のことをしなければならない。検察に送られて起訴されたら和泉の刑事人生は終わる。証拠不充分とか、そんな生ぬるいことじゃなくて、絶対に和泉は無実だと証明する必要がある。  いつもなら、すぐにでも自ら大阪へ向かうのに――ああもう、コロナめ!  夏帆が珍しく自宅にいるのは、休暇でも何でもない。一昨日に聴取した参考人が新型コロナウイルスの感染者で、夏帆は濃厚接触者として昨日から二週間の自宅待機を言い渡されていたのだった。もしかして自分も発症してしまうのではないかという苛立ちはもちろん、大好きな刑事の現場を奪われた苛立ちで、昨日は一日、好物のところてんのヤケ食いだった。まあ、七係の他のメンバーと接触する前に判明したことは、不幸中の幸いだけど。 《ほんでな、何があったか説明するとな――》 「鴨さん、それ、長くなるでしょ。報告はあとで聞くわ。鴨さん、これからすぐにあたしの言うところへ行って。そっちが先決よ。それから、葛木と芽衣ちゃんを大阪へやるから、絶対に和泉の無実を証明しなさい! 指揮はあたしがここから執るから、いつも以上に逐一報告するのよ! いい?」  時間は貴重だ。優先順位を即座に考え、夏帆はまずは事態の把握より体制を整えるほうが先決だと判断した。  あたしがこの目で選んだ刑事が犯罪に手を染めるなんて、しかもどんな理由があれ人を殺すなんてありえない。和泉の無実を信じているし、それは他の七係のメンバーだって同じだ。そして、七係なら仲間の無実を証明できると信じている。  さあ、気合い入れていくわよ!
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