序章 第一理科室の教師

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「——先生」  名前を呼ばれ、反射的に第一理科室の扉に視線を移す。  他の中学三年生の男子生徒と比べると背丈は低く、筋肉質でもない。黒髪で、どこか希望を秘めたような輝きを秘めている瞳を持つ男子生徒が、理科室の扉からひょっこりと顔を出していた。彼は、今年から受験生となる菱隈(ひしくま)成喜(なるき)と言い、先生の教え子の一人だ。  ビーカーを机の上に置き、先生は席を立つ。  理科室に置かれていた水槽が音を立て、中のメダカは元気よく泳ぎ回る。何匹も共に泳ぎ回り、まるでメダカの鬼ごっこのようだ。  理科室の出入り口に立つと、他の教室の様子がよく見えた。本日から、中学三年生のための自習室を開いたためだからだろうか。勉強熱心の人たちが自分たちの教室に残って、一生懸命勉強している姿が見られた。目は真剣そのもので、活気に満ち溢れていることがわかる。中には、担当の先生が教室の教卓で待機しており、質問を受け付けているところもあった。彼らの前には生徒たちの行列ができている。一人一人の対応と、彼らの求める答えを導き出していく様子は、同じ先生でもある彼も学ばせてもらっていることが多くある。  菱隈も、各教室で自習をしている生徒たちのように、勉強に熱心な人物には間違いなかった。しかし、個人懇談で話したときに目指していると聞いている、県内の難関高校に受かるためにか、他の生徒よりも気迫をよく感じる。  先生が菱隈の前に立つと、彼は手にしていたワークを開き、ある箇所を指差した。 「先生、ここの問題なのですが……この問題に使用されている力学的エネルギーがどのようなものなのかは理解できました。その通りに解答を作ったのですが、どうして僕の解答が間違っているのかわかりません」  よく他の先生にも、質問の仕方がとても上手なのが素晴らしいことだと言われる菱隈。その噂は本当なのか、と先生は思った。  ワークには問題の文章と図解が載せられている。その右隣に設けられた解答欄に菱隈の解答が書かれており、は赤ペンでバツがつけられていた。他の問題は、記述問題もすべてマルがつけられている。  先生は、図の上に書かれている問題文をよく読んだ。それだけで、解答を見なくても答えはすぐにわかった。  問題の図解を指差して、ゆっくり説明する。 「図に書かれている高さの間隔は、全部で三等分されているだろう? そして、この一つ分の間隔のエネルギーの大きさは、問題文に提示されていない。つまり、分数で考える問題なんだ。数学的な問題になるのだが、この図はこの間隔の二つ分を占めているわけだから、力学的エネルギーを(いち)とすると、この一を三等分している中の二つ分、つまり、力学的エネルギーの大きさは三分の二となるわけだ」 「ああ……。なるほど、そういうことか!」  そういうと、菱隈は早速、ワークに解法を書き始めた。字は少し雑になっているようだが、それでも十分に読める。これが、素早く書くための秘訣なのだろう。 「僕、全然問題文を読んでいませんでした。やっぱり、最後まで問題文を読むことは大切ですね。すみません、今後から気をつけます」  菱隈は小さく頭を下げた。  このような事例は、先生は多く目にしてきた。問題文を読まず、誤答してしまう生徒は少なくない。問題文に提示されていないことを急に書いてくる生徒もいれば、問題文の肝心な最後の部分を読み飛ばし、漢数字で答えなさい、というような条件を無視して、数字で解答を作る生徒もいる。この、わかり切った思いをして起こす行為『読み飛ばし』が、本番の試験で命取りになる。  先生は、なんとしてでもこれだけは避けなくては、と改めて確信した。 「問題文を最後まで読むことは、受験問題を解くに当たって鉄則だ。今のうちにその癖を直したほうがいいぞ。後に後悔することになるだろうから、最後まで読むことを癖にして、練習問題を解くといい」 「ですよねー」  頭を掻きながら、菱隈は笑った。  彼は、この学年で成績優秀である。しかし、だからと言って、真面目な性格だ、という偏見は持つことができない。菱隈は成績も良い割に、愛想がよく、周りのクラスメートからも慕われている存在なのだ。しかし、筋肉質ではないことを踏まえ、彼は運動があまり得意でないことを気にしているという。  完璧な人間ではなくても、この世界で生きていけるのに……。成績がいい人物は、何に関してもできるようになりたいという欲が働くのだろうか。怪訝そうな目で、先生は菱隈を見つめた。 「それで、他に質問はないのか? 大丈夫?」 「はい。これだけわかれば十分です。ありがとうございます」
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