序章 第一理科室の教師

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 解法がわかった、という生徒の明るい表情が、先生は好きだった。自分が中学生の頃は、このようにして勉強をして笑う機会なんて、ほとんどなかった。だからこそ、今の中学三年生の笑顔を見ると、胸の奥が暖かくなるのだろうか。  用件が終わり、先生が教卓に戻ろうとした、その時だった。 「先生、あと少し、よろしいですか?」  呼び止められ、振り向く最中に菱隈の瞳が視界に入る。どこか好奇心に溢れたような、優しい瞳だった。  彼は先程の質問の内容が書かれたワークを腕に抱え、微笑みながら目線を動じない。 「……どうした?」 「先生がこの前、僕たちに話してくれた話……あれって、本当のことなんですよね? 理科の授業に、たまに挟んでくれるじゃないですか、雑談」  そう言われて、すぐにどのような話なのかは察しがついた。先生は一度目を逸らしたが、すぐにまた菱隈の瞳を捉えた。白衣のポケットに手を突っ込み、先生は口を開いた。 「あれらの話は……俺が中学生の頃の、実際の話だ」 「へえ……先生が中学生の……。ならば、今の僕たちと同い年の話なんですね。その先生の友達、先生を理科に引っ張ってくれたんでしょ?」  無邪気な笑顔で、菱隈が語りかけてくる。  彼が淡々と語っていた様子から、情熱的に変わっていく。理科室に少しずつ足を踏み入れていく様子を見て、先生は慌てて両手で制した。 「そうだが……。悪いが、その話にはあまり詳しく触れたくはないんだ。そのことについて聞くのならば、もう帰ってくれないか?」 「えー。先生はケチだなあ……」  先生は菱隈のクラスの理科の担当の先生かつ副担任の先生である。先生は授業中に時々、彼の友人の話をした。  しかし、その雑談というべきものは、決して授業に関係しないものではなかった。話の中には、理科の物理の公式の覚え方についての話も混じっていて、その話を参考にして、多くの生徒が公式を正確に覚えることができたのだ。そのため、この中学校内では、先生は人気者になっている。今年、授業を持ってもらえなかった生徒たちは、羨ましい、という言葉を何度も口に出しており、先生に授業を持ってもらっている生徒たちは、みんな先生を自慢している。  先生本人にとっても、そのことについては誇りに思っているが、実際は、その話の内容については、自分自身で考えているものではなかった。先生が教え子たちに話してきた友達——彼が、その内容を考えていた。先生は、彼が教えてくれたことを、教え子たちに語ったのみ。  菱隈はもじもじしながら、まだ教室の出入り口に立っていた。  往生際が悪いやつだな、と先生は心の中で呟き、菱隈に寄った。 「あの……先生。僕、思うんですよ。理科嫌いな子でも、理科を好きにさせてしまう、魔法の言葉のようなものを教えてくれた、先生の友達を。ただの友達だったら、きっとあんなことを容易に考えられるわけないと思うんです。これは、あくまで僕の憶測なんですけど、先生の友達って……学年トップだったんですよね?」  質問をしてきた時よりも小声で、菱隈が口を開く。  先生は、彼に歩み寄っていた足を止めた。どのようなことをぶつけてくるのかと期待していたら、まさか菱隈の憶測がぶつけられるとは……。面食らった様子で、先生は視線を逸らす。 「そ、それは——」 「やっぱり! そうだと思っていたんですよ!」  首肯もしていないのに、菱隈はあたかも憶測が当たったとでもいうように、その場で何度かジャンプをした。まるで小さな小学生のようだ。  今更、先生は生徒たちに雑談を話したことを後悔してきた。彼らが少しでも理科に馴染めるように、理科を好きになれるようにという意味を込めての雑談のつもりだった。だが、菱隈のように余計な詮索をする人がいること……このことに関しては不覚だった。  気づかないうちに先生は菱隈から退き、理科室の奥へと足を踏み入れていた。  それに合わせて、菱隈は先生に近づいてくる。 「先生! 僕、その先生の友達みたいになりたいです! 学年トップだなんて羨ましい……‼︎ 僕も学年トップになって、志望校に受かりたいんです。どうか、その友達について話してくれませんか?」  足に何かがぶつかり、体も後退を止めた。  振り返ってみると、理科室の教卓にぶつかっていた。菱隈はどんどん近づいてくる。もはや、先生の逃げ場はない。 「いや……他人に話す気なんて、さらさらないから——」 「そんなこと言わずに、お願いしますよ! 絶対、ぜえーったいに志望校に受かりますから!」  耳に響くような鋭い声を上げ、菱隈は先生を圧迫した。彼は好奇心に溢れたような目で先生を見つめてくる。  先生は今まで、口だけでなら何度でも言えるということを経験してきた。言うは易いけれど、行うは難し——要は、勉強を頑張る、志望校に受かる、などという言葉を口にしただけで、行動では一切その様子を見せない、というもの。結果、受験に失敗する生徒は多くいた。  理科教師という立場である限り、根拠のないような物事を信じることはできない。今回の菱隈は、先生の友達の話を聞いて、志望校に受かると言うが……この話がタメになるとは限らない。  言い寄ってきた菱隈を押し退け、先生は教卓の前から身をずらした。 「こんな無駄な時間を過ごすより、受験勉強に身を置いた方が堅実だぞ? 早くクラスメイトの元へ行って、勉強してきなさい」  頬を膨らませた菱隈は、逃げた先生の元に寄ってくる。今度は、先生は椅子に座り、上目遣いで菱隈の様子を伺っていた。  菱隈は一歩も下がることなく、先生に言い寄った。 「僕は、確かに勉強をしていたいです! でも、勉強の仕方がよくわからなくて……。だから、多分、今の学年一位の子に成績が劣っているだと思います。僕は、自分にどこが足りていないのか、よくわかっていません。勉強が好きではなかったという先生を理科の先生にしているんですから、きっと、その友達なら方法を知ってるんじゃないかって思って——」 「わかったよ」  これ以上同じ話を聞き続けるわけにもいかないしな、と先生が呟きながら席を立ち上がる。黒板の前に歩みを進めていく先生を見て、菱隈は、よし、と小さくガッツポーズをした。 「——ただし」 「………⁉︎ はい‼︎」  白衣姿で背中を見せてくる先生を見ると、なぜか体が強張る。神聖な雰囲気を出すようで、菱隈は落ち着けない。  先生は菱隈に振り返り、細目になって口を開いた。 「このせいで菱隈くんの成績が落ちたり、俺の友達の真似をするようになるのなら……早急に保護者に連絡をし、校長室へ赴かせてもらう。この覚悟ができているのなら、聞くといい」  いつもよりもトーンの低い声で語る先生に、菱隈は真剣な表情で頷いた。
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