隠れ人-1-

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隠れ人-1-

「このぉっ!めっ!」    怒鳴(どな)り声を背に全力で走った。  息を切らしながら、木々の間を駆け抜ける。  荒い呼吸をするたび、芽吹き始めた森の香りが胸に染込んでいくようだ。    走る。まだ走る。    憎々しげに()える声が間遠くなり、消えたと気づいたころには、生い茂る木々の密度が増す、森の深くまで入り込んでいた。  耳を澄ましても、もう鳥や風が木立を揺する音しか聞こえてこない。 「……ふぅ」  太い木の幹に身を隠すようにしてもたれ、荒い息を調えた。 (今日は、結構しつこかった)  汗で張り付いたボサボサの前髪が鬱陶しくて、片手でぐいと額をなで上げる。  そっと辺りを見回せば、鬱蒼(うっそう)とした森にわずかに差し込んでいた陽は薄く、日没が近いことを告げていた。  今のうちに、何か食べられるものを調達しなければ。   屋敷の食料庫には、なかなか忍び込めないし、今は監視の目も厳しいに違いない。  ふと視線を落とすと、自分の手が目に入る。    細い手首。  小さな手のひら。  北に位置するこの国では珍しい、褐色を帯びた母譲りの肌。    ()せっている姿しか記憶にない母ではあるが、目が合うたびに微笑んでくれたのは覚えている。  そして、自分の名を呼ぶ声は優しかった。  五つになる前に死んでしまったから、もうその顔は、ぼんやりとしか思い出せないけれど。 ◇ 「十三になるというのに。血統の悪いガキは発育が劣る。肌も汚い」  少し前に屋敷に立ち寄ったときに、使用人のひとりがそう話しているのを耳にした。  それは一日一回程度、自分が生きていることを証明するために姿を見せたときのこと。  慣れた(ののし)り言葉に内心でため息をつきながら、家令の気配がないかを用心深く探った。  家令はとにかく、油断できない存在である。  いつのまにか気配もなく近づいてきて、雇っている教師に示しがつかないと椅子(いす)に縛りつけるのだから。  教師たちが与える時間は厳しいばかりで、楽しいことなど、ひとつもないのに。  だから、捕まっても(すき)をついては逃げ、罵倒(ばとう)されながら追いかけられる毎日を繰り返している。 ◇ (山菜はまだ早いかな。仕掛けておいたワナに、魚がいるといいけど)  水の音を頼りに歩き、川岸を見下ろす崖の上に出た、そのとき。  突然聞こえてきた、甲高(かんだか)い笛のような鳴き声に顔を上げると、一羽の(たか)が翼を広げ、悠々と大空を渡っていた。  空を()べる王のようなその姿に目を奪われてしまう。 (ここではないどこかへ、自由に飛んでいける翼……。なんてステキなんだろう)  憧れと同時に寂寥(せきりょう)が広がって、(たか)がその姿を消してしまっても、なかなか足を動かすことができなかった。  もう戻ってこないとわかっているけれど。  もう一度だけ、その姿を見たいという願いを、消すことができなかったから。
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