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茨姫‐1‐
離宮客間の豪奢な椅子に、深く腰かけたヴァーリが、ため息を吐き出した。
「急に太った鼠は、さすが貪欲なものだな」
その隣では褐色の肌の、眉雪も豊かな老大人が、あふれんばかりの笑顔でレヴィアを見守っている。
そのあまりの熱視線に、レヴィアは「おじい様」と呼ぶ機会を逃して、困惑していた。
「レヴィア。マハディおじい様に、……僕がおじい様とお呼びするのは、失礼でしょうか?」
満面の笑みを浮かべたマハディは、そのままの顔をクローヴァに向ける。
「なんの。リーラの手紙によく書いてあった、『ヴァーリに瓜二つの可愛い神さま』は、お前さんのことだろう、軍神クローヴァよ。リーラと仲良くしてくれたそうだな。お前さんが離宮を訪ね来るのが楽しみだと、毎回のように手紙に書かれていた。リーラの義息子なら、私の孫だ」
「ありがとうございます」
ヴァーリに似た紺碧の瞳が、柔らかく微笑んだ。
「ほら、レヴィア」
兄にうながされたレヴィアは、おずおずと茶碗をマハディの前に置く。
「おじい、様……。……どうぞお茶、を」
その一挙手一投足を、瞬きもせずに見守っていたマハディの顏が、喜びにくしゃりと歪んだ。
「本当にリーラに生き写しだなあ。しかも、あの堂々たる戦いぶりっ!ヴァーリの血も引くというのに、よくぞここまで良い男に育った」
「孫をほめるために、婿を貶めるのは、おやめ下さい」
「リーラをかっさらった男だからな」
「それは……」
ヴァーリの瞳がふと床に落とされる。
「テムラン大公。本当に申し訳なく」
「何だと!」
ヴァーリを強くさえぎった黒曜石の瞳から、滂沱の涙が流れた。
「お前は私の義息子だろう。『テムラン大公』とは何事だ!義父上と呼ばんか!」
一瞬うんざりした表情を浮かべたヴァーリだが、すぐに真顔に戻って頭を下げる。
「義父上、貴方の大切な姫を守ることができず、申し訳ありませんでした」
「お前のせいではない」
マハディは長衣の袖で涙を拭いながら、鼻をすすった。
「当時のトーラ情勢では、懸念された事態だった。それを承知で、お前のそばにいたいとリーラが望んだのだ。最後の手紙にリーラは綴っていた。『愛しい伴侶と息子に出会えて幸せだ』と。クレーネ」
「……クレーネ?」
首を傾げるレヴィアを、マハディは慈愛に満ちた笑顔で見つめる。
「アガラムではな、泉の神は万物の命を司る、高位神クレーネだ。お前はトーラならレヴィア、アガラムならクレーネ」
「僕の名前は、そんな由来が……。端くれ神の名前というわけでは……」
「誰がそんなことを?言ってみろ。ひねりつぶしてくれる」
小さく息を飲んだレヴィアに、不快にしかめられたマハディの顔が迫った。
「愚か者がいたのです」
ロシュを竜舎に戻したアルテミシアが、客間に入ってくる。
「ご安心下さい、テムラン大公。その者共は、私がぼっこぼこにしておきましたから」
「リズィエ、アガラム大公の御前です」
あとに続くジーグが苦く諌めるが、マハディは上機嫌で笑い出した。
「はは!ぼっこぼこか!それは愉快だ!マウラ・サイーダ、見事な竜騎士を見せてもらった。だが、ひとつ不満があるな」
「ご不満、ですか?」
「テムラン大公などと水臭い。そなたも今日からテムランだろう。私の娘になるのだ。お父様と呼ばないか」
「そのお年でお父様とは、またずうずうしい。バリエスに『老いぼれ』と呼ばれていたではありませんか。どう見ても『おじい様』でしょう、義父上」
先ほどの仕返しとばかりにからかうヴァーリに、マハディの太眉が不興気に寄せられる。
「あれの処遇は決まっているのか?ここで必要なければ、うちで引き取ろう。治水の人手が足りぬのだ。若者の力を貸してもらおうではないか」
「言い分を聞き終わり次第、暖かい国での労働を勧めてみましょう」
片頬で笑うヴァーリに、マハディが満足そうにうなずいた。
「うむ、王の裁量に任せよう。なんにせよ、今日は良い日だ。立派な孫に会え、素晴らしい騎士を一族に迎えられた。しかし……」
老練の瞳が、アルテミシアをじっと見つめる。
「トーラへ逃れた事情は聞いたが、帝国の竜家はいくつかあろう。そちらには頼らなかったのか。竜族の結びつきは強いと聞くが」
その瞬間、誰の目にもわかるほど、アルテミシアの顔色が変わった。
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