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茨姫‐2‐
テムラン大公から目をそらしたアルテミシアが、ためらう様子で口を開く。
「確かに、伯父の構えているサラマリス別家があります。その家には、第二騎竜隊隊長を務めていた、従兄がいるのですが」
それは、レヴィアが初めて聞く話だった。
「不慮の事故で、長期の療養中でした。そのようなときに、惨劇の生き残りなどが逃げ込んでは、サラマリス家の存亡に関わる。ですから、私を帝国外に連れ出した従者の判断は、賢明だったと評価しています。……それに、私は……」
アルテミシアの瞳につらそうで悲しそうな、だが、それだけではない色が浮かぶ。
「私は、あの場所には……」
言葉の最後は聞き取れないまま、小さくなって消えてしまった。
その横顔は固く、いつも寄り添ってくれている彼女が、透明な壁一枚を隔てた先にいるように遠い。
いつもの潔さはなく、レヴィアの始めて見るアルテミシアだった。
「ミーシャ、大丈夫?」
「ん?……ああ、ごめん」
レヴィアが思わず一歩踏み出せば、アルテミシアはすぐに気づいて、微笑みながら目を上げる。
「テムラン大公、ヴァーリ陛下。私はレヴィア殿下より賜った縁をもって、ここトーラを我が国と定めました。殿下の竜騎士として、生きていきたいのです」
「かつて、同じことを言ってくれた、とても美しい人がいた。『あなたとともに在る限り、私の郷はここトーラです』、とな。しかし……」
やるせない憂いを浮かべたヴァーリが、椅子に背を預ける。
「その人にそう言ってもらえる国であったかと自問するたび、苦いものが込み上げる」
ヴァーリは姿勢をゆっくりと正して、アルテミシアに向き直った。
「今度こそ、その尊い志に見合う国にすることを誓う。今や私ひとりの孤独な闘いではなく、心強い味方が戻ってきたのだから」
「僕も、誓うよ、ミーシャ」
「僕も誓おう、リズィエ」
「恐悦にございます」
微笑んでトーラの礼をとるアルテミシアは、いつもと変わらない。
レヴィアはほっと息をついた。
「この前、竜舎に行ったらね、ロシュに怒られたよ。自分だけ遊んでないって」
「そうそう。水遊びをしてないって、すねてるんだ。スィーニが自慢したらしい。よし!今回のご褒美にロシュと遊ぼう。でも、今度はスィーニがお冠だな」
「それなら、僕がスィーニに乗る?」
「一緒に乗らないのか?レヴィは、それでもいいんだ」
「よくないよ?ミーシャと一緒のほうがいい」
「だろう?ふたりのほうが絶対楽しいぞ。よし、さっそくロシュに伝えに行こう」
ふたりは肩を寄せ合い、楽しそうに離宮客間を出ていった。
重い音を立てて扉が閉まったのち、国王は首をひねりながらジーグを見やる。
「あのふたりのあれは、『逢引き』なのではないのか?」
「僕も、ずっとそう思っていました」
「そうなのか。では、クレーネはテムラン一族の女性と一緒になるのだな。これはめでたい」
くすくす笑うクローヴァの隣で気の早いことを言いながら、マハディはレヴィアの淹れた茶を一口味わう。
「ご冗談はさておき」
それらすべてをあっさりと「冗談」で片付けたジーグが、そっけなく続けた。
「当人同士の問題です。周囲の口出しは無用と存じます」
「ほぅ」
ヴァーリの唇の両端が上がる。
「アルテミシア殿を迎え入れるために、貴君の許しを得るのは、並大抵のことではなさそうだな。それはレヴィアの家であっても、同じだろうか」
さらりと「レーンヴェストにもらおうか」と言ってのける国王に、ジーグは表情も変えずにうなずいた。
「どんな家であろうとも、リズィエのご意思がなければ」
「アルテミシア殿は『トーラを我が国に』と、心から望んでくれているようだが」
「望んだのは国であって、家ではありません」
「『彼女が望む国にする』と、我が息子が誓った」
ジーグはまじろぎもせず、青磁色をしたその瞳を見つめる。
「失礼ながら、ご相貌からは想像いたしかねますが、陛下は」
「なんだ、申してみよ」
「かなりの親ばかです」
「お互いにな」
厳格な青磁の瞳と、思慮深い琥珀の瞳がしばし見交わされ、やがて、どちらからともなく表情を緩め合った。
だが、次の瞬間、ジーグの顔は憂いに陰る。
(サラマリスの茨は、あの子に当たり前の幸せを、もたらしはしないだろう。あの潔さは、諦めと表裏一体だから)
「ふたりの関係がどうであろうとも、ともに大切な存在です。その幸せは、心からの願いです」
その言葉に、ヴァーリもマハディも無言でうなずき返した。
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