『魔法使いの猫と千年の家』~にゃんすけのごはんと真幸の恋~

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「ふわふわの薄いパンに薄く塗ったマヨネーズ、ハムと採れたての瑞々しいキュウリ」  僕は口をもぐもぐしながらぼんやりと目を開けた。  開いた先にはキラキラとした朝日が庭を照らしていた。僕が寝ていた出窓のカーテンの間からは外の広い庭が見渡せる。部屋が二階にあるおかげで家の近くに植えてある藤の花や家庭菜園も見えた。  口に入ったはずのハムサンドは本当に僕の口に入ったわけじゃなく、いつもの夢だったのだとそこでわかった。けれど万が一にも本当だったかもしれないとじっと手を見る。本当の僕の手は小さくて、夢の中の僕のようにハムサンドを掴み取ることはできない。そんな小さな手を見つめてため息をついた。  気分を変えるためにも思い切り伸びをした後、少し離れたベッドへジャンプして移動する。ベッドにはこんもりと山ができている。カーテンの隙間から差し込んでくる太陽の光が部屋の中を明るくしているんだけど、寝ている人の頭には朝日が届かないようになっている。だから僕の飼い主である真幸(まさき)は未だに夢の中だった。  ベッドの布団はふかふかしていてとても気持ちが良い。僕も真幸の足元の方で丸くなってうとうとしたい欲求もある。でもごはんへの欲求の方が大きくて真幸の顔をパシバシと叩いて起こした後、ベッドから飛び降りて扉に向かう。真幸が「ハムサンド食べてから……」って寝ぼけた声で返事になっていない返事をしている。そんな真幸の布団の山を一度だけ振り返って「ごはんの時間だよ」って声掛けをしてから部屋を抜け出した。  真幸の部屋のドアには僕専用の小さな扉がついている。それを潜り抜けると斜め前に階段があって、僕は足音も軽く降りていく。  一階まで降りると右に玄関があって、外からのお客さんはこの玄関から家の中に入ってくる。  玄関の左右にそれぞれ扉があって、僕が下りてきた階段の下にあるのがお客さんの従者や運転手の待合室で、反対側がこの家の受付室になっている。それぞれの部屋に大きな窓口がついていて、中にいる人に声をかけられるようになっているんだ。  家の受付室の方は台所やリネン室とかに繋がっていて、家庭の仕事がしやすいようになっていたりする。  階段の左を見ると短い廊下の先に、庭へ通じる大きな扉と少し手前には二階まで吹き抜けになっている部屋の扉があった。お客さんを待たせたり、話しをするときの部屋になっていたらしい。  その部屋は真幸の部屋の窓からから覗くことができる。真幸の部屋は二階にあるから、この部屋で待っている人からは見えないようになっている。お客さんはほとんど来ないからまったく問題ないんだけどね。二階の部屋から下の部屋が覗ける窓があるなんてかなり変わった家だと思う。  僕が行きたいのはそのどちらでもなく、階段を下りてまっすぐ廊下を進んだ少し先だ。  左手にリビング兼、食堂があり、右手には台所があった。そこで留さんが僕の朝ごはんを用意してくれているのだ。  留さんは家のことをやってくれている元気なお婆ちゃんだ。ものすごい昔からいるらしくて、家主の真一郎さんも留さんには頭が上がらない。たまにお小言を言われている姿を見かける。でももしかしたら、年長者である留さんを立てて黙ってお小言を貰っているのかもしれない。だってお小言の後、真一郎さんがこっそりと笑って、しーっと指を口に立てていることもあるから。  僕が台所の入り口で「おはよう」と挨拶をすると、留さんは僕の方を見て笑った。 「おはよう。にゃんすけ」  毎日の挨拶だ。台所と廊下を分ける横開きの扉は、留さんがいるときは大抵開いている。だけど特別な理由がない限り、僕はそこに入ってはいけないという約束をしている。だからいつも台所の入り口でしゃんと座って挨拶をすることにしているんだ。  留さんは僕専用の真っ白な陶器のお皿を持って、台所の向いにある食堂へ移動した。僕はその後ろをついていく。庭に出られる大きな窓の前が僕のごはんの定位置だ。留さんはそこにごはんの入ったお皿を置いてくれた。水が出る装置もすぐ隣にある。  今日のごはんは缶詰の離乳食にミルクを混ぜたものだった。僕がしっかり食べているのを確認すると、留さんはまた台所に戻る。  留さんの本当の仕事は僕のごはん作りじゃなくて、この家の家政全般だ。まだ起きて来ない二人のごはんの用意をしているのを、僕はごはんを食べながら見ていた。 「にゃんすけ、おはよう。美味しいかい?」  後ろから声をかけられて振り返った。真一郎さんが僕に笑いかけながら、食堂にある大きなテーブルに座ろうとしていた。手には新聞を持っている。いつものやり取りだ。  真一郎さんの部屋は一階の奥にある。食堂、兼リビングの隣に書斎があり、さらにその隣の部屋が真一郎さんの部屋だ。元々は仕事場だったんだけど、今はベッドも入っていて、私室にもしている。本当の私室は二階にあるのだけれど、書斎から二階の私室に本を移動させるのが面倒になったらしい。だから今では仕事場を、仕事部屋、兼私室にしているんだ。服を着替えるときにだけ二階に行っているみたい。真一郎さんはその仕事部屋から食堂にやってくるので、いつも僕の背中に声をかけるんだ。 「美味しいよ」  返事をすると、真一郎さんは満足そうにうなずいて新聞を広げていた。 「真一郎坊ちゃん、朝食をお出ししますから新聞は閉じてくださいな」  留さんが注意する。これも朝のお約束だ。  留さんは真一郎さんや真幸や僕でさえも、決まった時間に食堂にやってくれば、席についたと同時に必要なものを出してくれる。ごはんやお茶やお菓子とか。だから食事のときに新聞や本を広げるなんてやらない方が良いんだけど、真一郎さんはほぼ毎日やっている。そして留さんに毎回お小言を貰っている。  留さんに注意されたいからやっているのかな。  真一郎さんは笑いながら新聞を畳み、「いただきます」と言ってから食事を始めた。  そのころになってようやく真幸が下りてくる。  眠そうな顔だ。まだ半分夢の中にいるみたいだ。 「留さん、おはようございます。伯父さんも、おはようございます」  ぼんやりした顔で挨拶をしている。服も着替えて、顔も洗って、髪もとかして、それなりに時間はたっているのになかなか頭が動いていないみたい。  留さんが真幸の朝食を持ってきてテーブルの上に置いた。一枚のお盆の上にすべてセットされていて、一回運びで終わる状態だ。ごはんと汁物だけはお代わりができるように、再度、お櫃と鍋を持ってきてくれる。お茶はすでにテーブルにある。後はセルフサービスっていうやつだ。 「にゃんすけに起こされなかったんですか?」  留さんは笑いながら真幸に声をかけた。僕はすぐに反論した。 「僕は起こしたよ」  これは僕の一番の仕事だ。僕が仕事を放置したと留さんも思ってないってわかっている。だけどまだまだ体が小さい僕のできる唯一の仕事だったからつい反応してしまった。  そんな僕に、真幸は笑いかけながら眠そうに目をこする。 「にゃんすけはきちんと仕事したんだけど、夢の中でも現実みたいな、変な夢見たせいで寝た気がしなくて」  そういった真幸の言葉に、僕は目が覚める前まで見ていた夢を思い出した。  確かに僕も変な夢を見ていた。この家の中で暮らしている夢なんだけど、どこかこの家じゃなかった。  家の中も外の景色もほぼ同じなのに、色々なところが少しだけ違っている。だけど夢の中の僕はそれをいつも通りと思っているんだ。  一番違うのは香り。夢を見るようにほんのり甘くて、それでいて爽やかな気持ちの良い香りがしていた。  そこには僕だけじゃなくて真幸もいる。そしてもう一人、真幸以外にも一緒に住んでする人がいた。真一郎さんでも留さんでもない、もっと若い人だ。  僕がその誰かを思い出そうとしたのと同時に、真幸が呟いた。 「あー、誰かなんだけど、誰だっけ」  真幸の声に反応したみたいに夢の記憶が消えていく。まるで綿菓子が水に溶けてしまうみたいにしゅーっと消えていってしまった。それがものすごく残念なんだけど、ただ一つだけ僕には溶けない綿菓子(記憶)があった。 「ハムサンド」  僕は思わず呟いた。  夢の中の人は僕にハムサンドを作ってくれたんだ。ふわふわの薄いパンに挟まれたハムとキュウリ。僕は両手でそれを掴んで口に頬張っていた。酸味の効いたマヨネーズが薄く塗られてあって、キュウリは採れたての瑞々しさ。  それを思い出すと夢の中で食べたものが次から次へと思い出されてきた。 「レモンパイ」  レモンカードの甘酸っぱさが頭の中に広がっていく。 「苺ケーキに、揚げパン、中華ちまき、とろとろシチュウ、ラザニア、レタスとお豆のスープに、パンプティング……」  普通の猫は食べてはいけないものもある。  でも僕にはまったく問題ないんだ。  何故なら僕はただの猫ではなく、『魔法使いの猫』だったから。
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