訪問者

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訪問者

「海藤さん、香水を使ってもいいですか?」 箕島は、九段の手紙を読んだ数日後に再びrecollectionにやって来た。海藤は、分かったと言って、あの小瓶を出してきた。 「ありがとうございます、やっと行く決心がついたんです」 手に取って、シュッシュと香水を服にかける。とても落ち着くにおいだ。説明がしづらいが、強くどこかへ引き寄せられそうな感じがする。そう思い込んでいるだけかもしれないが、この世界を離れることになるのだから、きっと本当にそう感じているのだろう。 「裕太郎、正直言って僕はまだ信じられない。長い事生きているが、こういう類の話はフィクションでしか聞いた事が無い。しかし、宏人が行方不明になっている以上、今回は真実として受け取ってみようと思うんだ。この通り、僕は店を切り盛りしなければならないし、爺さんだから速く動く事が難しい。唯一の親友である君に、彼の捜索をお願いするよ」 「承知しました。僕は大学院生の身、時間はある程度取れますし、きっとこの経験も将来に活かせるでしょう。2人で帰ってきたら、修士論文のネタにでもしますよ」 冗談を言って、彼は口角を上げた。 「いってらっしゃい。どうか気を付けて」 「はい、行ってきます」 ドアのベルが鳴った。 電車に乗っている間は、どうやって時間を潰すかを考えた。並行世界に繋がる列車が夜しかないと仮定した場合、日が昇っている内に目を瞑っても意味がないだろう。もし、総武線の千葉方面の電車しか受け付けないとしたら、飯田橋駅に着いた時に再び電車に乗る必要性もある。しかし、recollectionは店主のその日の気分で閉店時間が決まるので、ギリギリまで緑の街に留まることは出来なかった。大学に行ってもいいが、そこの学生ではない人間がうろついているのも変だろうと考えた。箕島は、とりあえず飯田橋駅に着くまではCampus Mazeでも読んでおこうと思った。電車の走行音をBGMに、紙の上のアルファベットを追いかけた。 「次は飯田橋、飯田橋です」 車内アナウンスと共に箕島は座席から立ち、ドアの方へと向かった。改札を抜けた時B塔が目の前に見えて、聖地巡礼の様な事をした時を思い出した。あれは楽しかったとつぶやいて、取り敢えずスクランブル交差点を通過して大学へと向かう。前回と同じ事をするつもりは無いが、夜まで何もする事が無いなら仕方がないだろうと感じていた。周りの学生たちを見ながら歩き続け、S棟の入り口近くまでやって来た。構内に入ろうとした時、ふと吉井から来た写真を思い出した。 箕島は止まって、グループチャットを開く。そして、少し前の会話まで遡って、吉井が載せたパンケーキの写真を見た。確か、これって近くの店のやつだよなと思い、画面を再びスクロールすると、そこに彼のコメントがあった。 「大学の近くのパンケーキ屋さんです!坂を上って、武道館方面に行くとあります。とても美味しかったので、付近に来たら寄ってみてください!」 これだ。ここにしよう。甘いものでも食べて、夜を迎えよう。箕島は、S棟の入り口を通過して、次の信号まで歩き、そこからすぐに左に曲がって坂を上った。そして、見えてきた次の信号を渡って、また左に曲がり、武道館方面へと歩いた。隣のパン屋さんの黒い旗が目印だと書かれていたのだが、結構距離があるのか、なかなか見つからない。7分程経ってようやく旗が見つかった。 そのまま階段を上がり、右手にあるドアを引いた。店員の誘導のままに席に座ってメニュー表を見る。さて、何を頼もうか?吉井が食べていたあのパンケーキはあるだろうか?表のページをめくって、例の写真の品を探す。そして、すぐにそれが見つかった。 「ご注文はお決まりでしょうか?」 女性店員が声を掛ける。 「この、スペシャルパンケーキで」 「こちら、お出しするまでにお時間を頂くのですが、大丈夫でしょうか?」 「はい」 なるべく遅くまで留まっていたいのだから、むしろ好都合だと思った。店員がいなくなった後、お冷に手を付けて街を眺めた。彼は、ペルーに住んでいた時期を除いて、ずっと東京にいる。よく外出に行くがこの街は飽きない。何回同じ道を行こうが、同じ事をしようが、必ず東京は違う顔を見せてくれる。新しい人、新しい商品、新しい場所、全てが同じだった日は1度もない。変わり映えの無い日々が続いているようで、注視していると小さな違いが幾つもある。その理由は、ここが大都会で誰でも受け入れてくれる街だからに違いない。いつだったか、吉井も似たような事を言っていたような気がする。聖地巡礼後だったか、帰りの電車で東京の事を大きな生き物の腹の中だと例えていた。今思い起こしてみて、その表現はますます興味深いものとなった。 「おまたせいたしました、スペシャルパンケーキです」 写真通りのものが目の前に運ばれてきた。ありがとうございますと言って、箕島はゆっくり食べ始めた。recollection以外のスイーツは、久しぶりに食べたかもしれない。別に甘党という訳でも無いのだが、スイーツを食べていると元気が出る。いつも小難しい本や論文を読んでいるから脳が欲しているのだろう。しかし急いで食べてはいけない。あくまで目的は並行世界に行く為に夜までここに居る事。それに尽きる。 そうやって徐々に皿をきれいにして行き、あと一口という所で急に橋込が渡してくれたCampus MazeのSettingsを思い出した。箕島は、カバンからそれを取り出して、登場人物にReiji Hashigomeという名前が載っているかを確認した。しかし、彼の名前どころか、濃霧街を示すような単語も見つからなかった。彼は残ったパンケーキのかけらを食べて、皿を向かい側の席の方へと動かした。そして紙を置いて時間を確認した。 「18:30か。確か大学の5限目が終わる時間だったよな。宏人もこの時間帯に電車に乗って並行世界に辿り着いたはず。もう行くか」 箕島は会計を済ませて外へと出た。耳にあたる空気が冬の到来が近いことを示した。辺りは暗くなっており、近くの学生たちが飲みに行こうぜと盛り上がっていた。彼はそのままポケットに手を突っ込んで、飯田橋駅へと向かった。 ―――――――――― 目が覚めた時、電車は一切飯田橋駅から動いていなかった。動いていたけど違う飯田橋駅に着いたと言った方が良いだろうか。箕島はすぐに外へ出た。描写の通り、B塔と外灯以外は全ての灯りが消えていた。 「本当に……本当に会ったんだ、並行世界って……」 ここに来るまで、箕島は並行世界は存在すると仮定して行動してきた。しかし、実際にそれを目の当たりにすると、本心では信じていなかったんだなと思った。そのまま物語の通りに法務街を目指す。誰もいない都会に新鮮さを感じながら、S地区の入り口に入った。すると、奥に誰かが立っているのが見えた。 「箕島君だね、ようこそ法務街へ」 男性がそういうと、S地区全体の明かりが点いた。 「はじめまして」 箕島はとりあえず挨拶をした。 「あなたの事は九段さんと橋込さんから聞いていますよ」 今度は女性が声を出した。 「いけない、名乗るのを忘れていたね。僕は一口靖(ひとくちやすし)」 「私は神楽舞(かぐらまい)です」 「この人たちが、ヒトクチとカグラ……」 箕島はうっかり声を漏らした。 「どうかされましたか?」 神楽が首をかしげる。 「いいえ、なんでも」 彼はそう返した。 「さて、君のようにここに関する資料を読んで、ここの香水を纏って、客人から招待状を貰って来るタイプは初めてだからね。お出迎えしてみたいって思ったんだ」 「九段さんみたいに、生きている内に2度来る客人も初めてでしたけどね。招待状を書きはしましたが、まさかご友人まで来るとは思ってはいませんでした」 確か九段が初めて来たときは、ここは明かりは点いていたが、人はいなかったはずだ。わざわざお出迎えしてくれるとは、とても親切な方たちだと箕島は思った。 「わざわざ僕のためにありがとうございます」 箕島はお辞儀をした。彼らは、いえいえと言って、ホテルの1階にある休憩スペースに行ってくださいと返した。そこで九段が待っているのだという。彼は再度礼を言い、そのままホテルBへと移動した。 中に入ると、見覚えのある顔が椅子に座っていた。箕島は咄嗟に近寄って、声を掛けた。 「久しぶり、宏人!」 九段は、笑顔で彼の手を握った。 「裕太郎、ようこそ法務街へ!会えて嬉しいよ!」 2人はしばらくの間、お互いの事を語り合った。箕島は、卒業後に出会った吉井達の話をした。彼らの協力で、ここまでたどり着けたのだと熱く語ると、九段はいつか会ってみたいものだと感心していた。九段は、英語講師としての仕事が上手く馴染めずに、悩んでいた所を橋込という男に声を掛けられたと言った。その当時は濃霧街という存在に気づいてはいなかったが、法務街についてよく知っていたので信じたのだという。精神的に参っているなら、法務街に戻ればいいと提案され、現実世界の重苦しさから逃れるようにここに来たらしい。 「逃げる事をさも悪いように言うやつがいるけどさ、俺はそういう考えは間違っていると思う。やらなきゃいけない事を、勝手に放り投げるのはいけないと思うよ。例えば、納税とかね。でも、法に触れなきゃ、逃げたっていいだろう?自ら死を選んで、みずぼらしい姿を見ず知らずの他人に晒すよりはマシさ。今ではとても心地が良いよ。幸せだね」 「そうか、なら良かった。君が生きていれば、それでいい」 箕島は早めに彼を現実世界に連れて帰るつもりだったが、しばらくここに滞在して頃合いを見て提案する事にした。彼らしさを前面に出しても問題がない場所なのだ。戻るのはタイミングが合った時でいいじゃないか。今は自分もこの世界を楽しもうと彼は心に決めたのだった。 ―――――――――― 「ついに来たか、箕島君が」 橋込は、夜の空を見上げながら言った。 「ええ、そうですね」 隣で立っている藤野が言う。 「彼が運よくパンケーキ屋に入ってくれてよかったよ。お陰で元幽霊の店員から連絡が来た」 藤崎は黙って、煌々と輝くホテルBを見つめていた。 「2ヶ月後に最終月祭(さいしゅうげっさい)があるだろう?その時が君の願いを叶える事が出来るかもしれないよ」 「ありがとうございます」 彼女は頭を下げた。 「じゃあ、私は家に戻るよ」 橋込が去った後、彼女は今までの出来事を思い起こした。 ―――――――――― 藤野咲恵は、前世で病弱な娘がいた。名を実咲と言い、自宅と病院を頻繁に行き来し、その影響で同世代の子供たちと十分に遊ばせてあげる事が出来なかった。彼女の辛そうな顔を見るのは、母親としてとても苦しい事だった。自分のせいでという気持ちが溢れては止まらず、「外に出たい」というお願いも、聞き入れたいのだが出来ないという無力さに打ちひしがれる日々だった。夫は娘へのサポートもさることながら、妻の咲恵への支えも忘れなかった。しかし、努力むなしく実咲は亡くなった。小学校に入学する直前の春の出来事だった。美咲の存在が心の支えだった咲恵は、もはや自分の人生に意味など無いと感じるようになっていった。そして晴れたある日の朝、彼女は死んだ。どういう死に方をしたのかは思い出せない。でも、人生を全うしたという気持ちは全く無かった。 その後は、法務街の住人となり、K地区に住むことになった。しばらくは、健康になった実咲と幸せな日々を過ごしていたが、彼女の「外に出たい」という要望は変わらぬままだった。咲恵自身も、一緒にピクニックに行ってみたかったが、街の規則で外出は禁止だった。その後は、九段との交流があり、彼が突然現実世界に帰り、程なくして一口の勧めで実咲も帰って行った。手鏡を見る試練を、彼女はあっさりとクリアした。彼女は病気がちな自分を嫌っていたが、死んだ事に対しては咲恵程は深刻に考えておらず、元気になった事を喜んでいたため、自己嫌悪が吹き飛んだろうと神楽が後で説明してくれた。実咲は母親の事を気には掛けていたが、外へ出れるという喜びで帰って行ったのだともう。その時は、心配させないように後で会いに行くと約束した。実際には不可能だと分かっていながら。 その後はK地区の解体決定を受けて橋込と行動を共にした。「いいえ」の集団のリーダーとして、周りにばれないように移住計画を手伝い、そのまま住人のリーダーとして濃霧街で暮らしている。あの時に手鏡を一緒に見ていたら、実咲と家族として生まれ変われたのかもしれない。しかし、自己否定の心を持つ成人女性にはあの試練を乗り越えるのはきっと出来ないのだろう。きっと居無のように幽霊になっていたに違いない。仮に乗り越えたとしても実咲と一緒になる確率は100%ではない。それならばここに留まって落ち着いて暮らす方がいい。それが咲恵が導き出した結論だった。 ただ、この記憶を持ったままもう一度実咲に会いたいという気持ちもあった。生まれ変わった彼女が忘れていても、自分でした約束を果たしてからなら現実世界に戻れる。そういう淡い期待を持ち続けているのだ。移住後に橋込にその話をすると、彼はどうやったらそれが出来るかを一生懸命考えてくれた。そして、九段と関わりを持ち、親友である箕島を先に呼ばせ、後から生まれ変わりであろう堀田を呼ぶことで、彼女の夢を叶えるという提案をしてくれた。橋込曰く、法務街の図書館に住人と客人の前世と来世が記載されているらしく、関係が改善した後に行ってみたら、実咲に関する情報が見つかったのだという。彼女は彼に心から感謝した。 ―――――――――― 「美咲……漢字は違うけど、読みは一緒なのね」 藤野は、自分が名付けた名前が来世になっても殆ど変わっていない事が嬉しかった。これで、実際に会った時にためらいなく実咲と呼べる。彼女にはさっぱりだろうが、私の中では区切りがつく。そう考えていた。娘が泊まるであろうホテルBを見た後、藤野は自分の家へと戻った。濃霧街は今も霧に包まれている。
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