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聖地巡礼のようなもの
Campus Mazeの内容はこうだ。法務大学に通う学生、ヒロトがある日S棟2階で「一名様限定、ゼロ人称より」というビラを見る。しかし、このビラは他人には見えないらしく、周りの学生からは怪訝そうな顔で見られる。その日の帰りの電車で彼は居眠りをする。目を覚ますと、なぜか終点が大学の最寄りである飯田橋駅だった。焦った彼はとりあえず駅から離れるが、電車内にも、ホームにも、街にもだれもいないことに少しして気づく。外灯以外の灯りが点いていない中で、街を見渡すと、大学のシンボルであるB塔だけが明るいのを見つけ、夜を過ごすためにそっちへと向かう。敷地内は煌々と輝いているが、やはり誰もいなかった。静かな大学内をまわった後、Y棟の6階にある屋上庭園で、寒さを肌で感じながら硬い石のベンチに寝転んで、真っ暗な大都会を眺めて眠りにつく。
翌朝、ヒロトはB棟11階の4号室で目を覚ます。ベットのから体を起こすと、近くでカグラ・マイという人物が立っていた。彼女の話を聞くに、彼はこの「街」に客人として招かれたらしく、5つの棟は「地区」に、B塔は「ホテルB」になっていた。カグラの入れたハーブティーを飲んで、法務大学ならぬ「法務街」での時を過ごすことになる。
まずヒロトはホテルBの地下1階にある食堂でうどんを食べた。その時に、ヒトクチ・ヤスシという男に声を掛けられる。彼がヒロトを法務街に招待した人物であり、ゼロ人称という単語に見覚えはないかと訊いた。ヒロトは即座にビラの事を思い出し、この街について話を聞こうとしたが、それはまた後でと返される。彼は仕方なしに中央広場に移動し、そこで行われていたツアーに参加する。そこで、S地区がオフィスに、F地区とK地区が住人のマンションに、Y地区が学校に、G地区が娯楽施設つきの公民館へと様変わりしており、老若男女色んな人が楽しそうに暮らしていた。ヒロトは、胸の中のつかえが取れたように感じ、とてもいい場所に来たと確信した。ツアー終了後、屋上庭園で配られるビーフシチューを食べることに決めたが、それまで時間があるため、ホテルBの最上階から東京の景色を眺めることにした。
エレベーターの扉が開くと、遠くで女の子の声が聞こえた。どうやら、外に出たいと母親にせがんでいるようだった。ヒロトは最初こそ無視していたものの、母親がうるさくしていてすみませんと謝ったのがきっかけで会話をするようになった。少女の名前はミサキといい、彼女はしきりに外に出て、色んな所に行ってみたいとヒロトに話した。母親曰く、元の世界に戻るためには街に留まるのが必須らしく、それ故に連れ出すのは難しいのだという。ヒロトはミサキに、屋上庭園に行き一緒にビーフシチューでも食べないかと提案した。彼女は、母親に勧められる形でうんと言い、3人で一緒に移動することになった。その時に、ミサキはここは既に亡くなっている人間と、自分の人生に強い疑問を持つ人間が交流する場所なのだと彼に伝えた。
翌日、ミサキはヒロトをY地区2階のラウンジに連れて行き、友達を紹介した。彼はユウと名乗り、見た目からは想像が出来ないほど大人びていた。彼女にこの街の仕組みを教えた人らしく、13歳くらいのいでたちでブラック缶コーヒーを飲んでいた。まず、彼は身軽に飛んで、Y地区とG地区をつなぐ連絡口の上に座って見せた。普通ならば絶対に届かない高さなのだが、この街では区域外にさえ出なければ大概の願いは叶うと言った。ヒロトが後に続き、隣に座った後、彼は法務街についての説明を始めた。
ユウによると、集める人間は、この街の「管理人」である。ヒトクチとカグラは、次期管理人として研修をしており、その過程でヒロトを呼んだのではないかと推測した。彼らは、行き場のない魂に街に招いたり、死んだも同然の人間に休息を与えるために、ゼロ人称という単語を視認させて街までの「道」を作るなど、多くの人の人生に関与している。彼によると、前者は「住人」で後者は「客人」と区分けされているが、上下関係などは一切なく、極めて平和的な場所だと語った。
外に出たり自分の名前は変えたりは出来ないが、先ほどみたいに飛んだり、容姿を変化させたり、お金をかけずに好きなことを追求出来たりと、現実世界ではありえないような自由が保障されている。実際に、彼は中身は40代の成人男性であり、自身の希望によって少年に若返ったのだという。彼曰く、前世で満足した青春が送れずに死んだので、ここでやり直しをしているらしい。ただ、ミサキについてはあの歳のまま亡くなったのではないかと語った。彼女曰く、病気がちで満足に外に出られなかったので、体が軽い今こそチャンスなのにお母さんが認めてくれないのだそうだ。もっとも、ユウでさえもなぜ区域外に出てはいけないのかは知らないという事だった。
最後に、彼はこの街には鏡が一切ない事をヒロトに伝えた。前にヒトクチに聞いたことがあり、その時に鏡は客人には害であると教わったらしい。住人と客人は、街に来る前の自分に不満を抱いているというのは一致しているのだが、後者はまだ現実世界で生きている。なので、自分の姿を「直視」することになる鏡は排除しているのだという。並行世界の鏡は外見だけではなく、内面までをも映しだす。そうなると、自己否定が強い客人たちはその醜い姿を認識することになる。覚悟が出来ていなければ、激しく混乱して街を出てしまい、そのまま行方不明になってしまうのだ。
その後はヒトクチとカグラの呼びかけで、ミサキを加えて5人で昼食をとった。場所はホテルBの4階にある緑地庭園で、そこで親子丼を食べた。その後ヒロトはしばらく法務街に滞在していたようだが、ある日、不意に帰る決心をする。時が過ぎればすぎるほど、本来いた場所である現実世界での自分の存在が薄まってしまうことに怖さを感じたからだ。自分を受け入れて、いるべき場所で人生を全うするべきだと考え、ホテルBの1階でヒトクチに手鏡を頼む。そして、思い切って見ると、顔に無数の単語がタトゥーのようにくっついていた。
ばか、ごみ、つかえない、よわい、どうしようもない……
覚悟はしていたものの、ヒロトは自分にこのような評価を下していたという事実を認めたくなかった。しかし、自分自身の事を嫌っていたことは確かであり、その行為がここまで自分を追い詰めているとは思ってはいなかったのだった。彼はヒトクチのアドバイス通りに、自分の部屋である11階4号室に戻り、休憩を取ることにした。この時は、ガラスに反射する自分の顔を見ないように、一切電気を付けないでベットに入った。
次の日、目を覚ますと前のようにカグラが部屋にいた。彼女は体調はどうかと訊き、彼は大丈夫だと返した。それを聞いた途端、とても安心したようで、これで無事に元の世界に戻れますよと言った。彼は自分を乗り越えたと感じ、カグラに礼を言って支度をした。駅へと向かう準備が出来た時、彼女はお土産として少し大きめの瓶を渡してきた。どうやら香水らしく、この街にいたという唯一の証拠品だ。彼は現実世界に戻るため、S地区の出口で待っていたヒトクチと合流する事になった。
その後、目を覚ましたら電車は秋葉原駅についていた。ヒロトは急いて下車し、階段を降りる。スマホを取り出してみると、ビラをみた日付だった。短い距離で密度の濃い夢を見ていたのかと思ったが、家に帰った時に例の瓶がリュックサックの中に入っていたことに気づいた。彼はそれを手に取ってボタンを押した。部屋一面に美しい香りが広がり、まだ古くなっていない法務街での記憶が蘇る。
彼はいそいでノートを取り出し、街で経験したことを書き始めた。リビングでは、母と妹がパーティで何を用意するかを話しており、父がお笑い番組を見て笑っていた。いつも通りの年末の雰囲気を感じ取り、今年も終わりに近いのだとしみじみ思った。クリスマスが間もなくやってくる。
――――――――――
「どう、この物語?」富士見はスマホの画面を消して、顔を上げた。
「すごい……。本当に九段が書いた物語かもしれない。今思い出したのですが、読み手は教授と同級生なのだから、舞台は大学にするのが一番いいだろうと言っていたんです。吉井君や堀田さんの話は彼から聞いたことがありませんが、それを抜きにしても彼が書いたと思えるんです。香水の事も、僕は実物は見ていませんがちょうどその時あたりからつけ始めるようになったし。現実と彼の頭の中にある世界を掛け合わせて、課題として提出したのではないかと思います」
箕島は、そう言うとカフェオレを口にした。
「僕とユウって何か共通点があるんじゃないかって思ったんだ。物語のユウがブラックコーヒーを好んで飲んでいるように、僕もrecollectionでよくこれを頼んでいた」
彼はグラスを持ち上げた。
「満足した青春時代を送れなかったとぼやいていた所も、なぜか共感してしまうんだ。世間一般的に、僕は青春真っ只中の歳なのだろうけど、このまま大人になったらユウと同じことを言うんだろうなって考えてしまった。まるで、もうひとりの自分を見ているかのようだったよ」
「私もミサキという登場人物に共通点を見つけた。病弱であまり外に出れないっていう所とかね。私は半分自主的に家に籠っていたから、親に外出をねだったりはしなかったけど、学校以外の場所に連れて行ってくれた時は感謝した。そして、その楽しい思い出の中に、クリスマスフェアでビーフシチューを食べた時っていうのがあったの。だから、Campus Mazeってなんか不思議な作品だって。まるで、作者が私たちの事を前から知っているようじゃない」
富士見は3人の話を興味深く聞いていた。少し前まではK棟が存在し、Y棟の完成して間もなく解体された事を先輩から聞いていた。作者が箕島と同い年だと推定すると、この物語が書かれた時期と大学の工事の時期が一致するのだ。彼女は、これは単なる創作物ではないのではと感じた。しかし、今の時点ではただ課題として作られたショートストーリーであり、資料館に寄贈されたとはいえ、館長である町田からその存在を忘れられて、本棚と本棚の隙間に挟まっていたただの紙の束だった。
「よし、じゃあ取り敢えず大学に行って作品に出てきた場所を巡ってみるか。みんな時間あるかい?」
外濠が椅子から立ち上がる。彼に合わせるように、みんなテーブルにお代を置いた。
「ありがとうさん」
海藤の声に反応するように手を振って、一行は大学に向かって歩き始めた。緑の街駅に入り、電車に乗って、飯田橋駅で降りた。階段を上り、改札を通ると遠くにB塔が見えた。
「あれがホテルBか……」
箕島はスマホをポケットから取り出して写真を撮った。物語の中に出てくる場所は、とりあえず撮影しておきたいのだという。他の4人にとっては通学で何度も見た景色だが、これが一つの街になるという考えはいままで出てきた事が無かった。まさか、新たな視点でいつもの場所を解釈しなおす機会が来るとはと、吉井は集団で歩きながら心の中でつぶやいた。
S棟1階から構内に入り、まずは2階の掲示板を見た。当然、ゼロ人称からのビラは無かったが、公認サークルのイベント告知が貼ってあった。次に、3階に上って中央広場に移動し、B棟の入り口に入って11階の4号室に移動する。その後、順序を飛ばして屋上で東京の景色を見た後、4階の緑地庭園に行き、地下1階でうどんを食べ、中央広場に戻って連絡口を眺めた。そして、Y棟2階のラウンジの自販機で缶コーヒーを買い、3階に移動し連絡口を通りG棟へ移動した。そしてエレベータを使って6階に移動し、屋上庭園で再び景色を眺めた。最後に飯田橋駅に戻りホームを見つめた。
「いやあ、思った以上に時間かかりましたね」
吉井は外濠と箕島に顔を向けて行った。
「確かに。物語通りに巡礼していったら大変だったよ。もっと時間が掛かっただろうね」
外濠がB塔を眺めながら言った。
「いやあ、でも外濠さんのお陰で本当に助かりました。僕ひとりで行っていたら、間違いなく今よりも数倍時間が掛かっていましたよ」
箕島が外濠に礼を言う。外濠はいえいえと返した。
「それにしても驚いたよね。場所の描写がとても細かかった。作品が完成した時からキャンパスの構造が少し変わっているとはいえ、これがここなんだってすぐに分かったもの」
堀田が腕を組みながら言う。
「でもまあ、面白かったね。ほぼ誰も知らない作品の聖地巡礼をするとか、守と美咲に言われなければ出来なかったよ」
富士見が笑顔で2人を見る。
5人はまた集まることを約束して、ホームで別れた。吉井は、より一層作者であろう九段宏人に会ってみたくなった。
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