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行方を知る者
箕島はいつもの様に緑の街に来ていた。彼の第1の目的は、最初から変わらずに九段の捜索である。しかし、最近は一息つくためにここにいることも多くなった。公園の木製のベンチに腰掛けながら、子供たちがわいわい遊んでいる所を眺めながら、自分自身の事を考えていた。
彼は自分の人生をユニークで面白いと常に思っている。公立の小学校、南米のインタナショナルスクール、全日制の高校、全て英語で授業を受ける大学、そして文系大学院。ここまでバラエティー豊かな10代・20代を過ごしている人はそうそういないだろうとよく思っていた。
なぜ彼がこのような経験をしているのか?ペルーに移るときまでは、両親からの影響が強かったが、帰国してからは大方自分が望んで行動してきた結果だと思う。高校に通いながらも、遊ぶ事を楽しむ時間も作ると決めたのは彼だし、必修科目以外の履修登録は、直感で決めてきた。周りが就職活動に勤しむなか、文系の大学院に行こうと決めたのも彼自身の判断だ。さすがに、1番最後の決断をするまでにはかなり時間が掛かった。もう20歳を超えていたし、本当は経済的な自立を優先させた方がいいのではと何回も思った。修士号を取得したところで、華やかな人生は待ってはいない。自動販売機にある、1本160円の炭酸飲料を買うことは2度と無くなるかもしれない。同世代の人間が着々と社会経験を積む中、自分は説明するのが難しい学問を追求するのだ。簡単に決められるわけが無かった。
彼が何故表象文化論に興味を持ったのか、正直なところを言うと思い出せない。おそらく、ペルーの料理店で寿司を頼んだら、自分の思っているものと違うのが出てきたのが理由なのかもしれない。なぜか巻き寿司オンリーで、湯風の具材が入っているし、しかも海苔で巻かれているのではなく、白ゴマがついている。もっと驚いたのは、醬油皿が2つあったことだ。片方は醤油なのだが、なぜかもう片方はオレンジジュースだった。でもここではさして珍しい事ではないのだろう。彼はそのまま巻き寿司を1つ箸で掴み、オレンジジュースにつけて食べてみた。中に入っているクリームチーズとジュースが何とも言えない感じで混ざり合ったが、まあいけなくもないと感じたのだった。
別の日には、日本式の祭りに参加した。アニメ好きが集まって開催しているのもあり、寿司と違って正確に祭りが表現されていた。屋台がたくさんあり、コスプレや着ぐるみをしている人もいた。あまり思い出せないが、なにかライブをやっていた人もいたような気がした。ただ、かき氷がなぜかカッチカチに固まっており、丸っこい氷を砕くまでに結構な時間が掛かった。日本の文化がこうやって海外で表現されているのは、見ていて楽しいものだった。
「日本文化……アニメ……ああそうだ」
彼はたった今、なぜ表象文化論に興味を持ち始めたのかを思い出した。それは、とあるアニメ映画だった。小さい頃に、母が見せてくれた1本の映画。10歳くらいの小さな女の子が主人公で、日本の神々が暮らす世界に迷い込んでしまい、元の世界に戻る過程で様々な経験をしていくという話だった。当時歴史的な大ヒットを飛ばしていたらしく、周りの人間は全員その映画を見たことがあるという程には名作だった。大学1年生だった時に、メディア論の授業を取ったことがある。その時の教授が、物語や楽曲がどのように先行作品から影響を受け、作られて、オーディエンスに届くのかを話していた。あの映画に心を動かされたものとして、その授業内容がとても面白かったのは間違いなかった。結局その教授のゼミには入らなかったが、自分のやりたい事を見つけ出すいいきっかけになったのだ。
それ以降、作品やシステムがどのように成り立つのかが面白くて、よく調べている。チャットで吉井からKritik Townsendを勧められた時は、「追憶」を聴きながら彼らが音楽的にどのような影響を受けているのかを調べていた。このベンチに座る前に、グループチャットで外濠からメイドカフェに行ったと写真が送られてきたときは、帰ったら少しメイドカフェの文化とシステムの原点を調べてみようと考えた。この様な行為が、彼にとって役に立つかは分からない。しかし、やっていて楽しいのだから問題はない、そういう風にして彼の生活は営まれていくのだった。
「失礼、もしかして箕島裕太郎さんですか?」
彼が顔を上げると、目の前に男が立っていた。
「はい、そうですけど」
そう答えると、男は良かったという顔で隣に座って来た。
「九段宏人さんのお友達ですよね?実は彼について話しておきたいことがあって」
「話ですか……?」
「ええ」
男は頷いて、静かにカバンから何かを取り出す。彼が見せてくれたのは、1枚の紙だった。そこには、なにか図のようなものが書かれており、左上には"Campus Maze - Settings"と書かれていた。
「これはもしかして」
箕島は前に読んだ内容を思い出した。この紙に書いてある登場人物の名前や、法務街などの詳細が書かれている。裏面には物語をどう進行させるかが書いており、1番下の所に、"Not to forget what I've seen here"と書かれた小さな文字が見えた。
ここで見たものを忘れないように。つまり、この作品はフィクションではなく、実際に起きた話という事だろうか。もしそうなら、並行世界は存在し、九段はそこに滞在していたという事になる。にわかには信じられないが、すぐに否定したくないと彼は感じた。そういうファンタジーな世界に行けるのだったら、是非行ってみたいものだとさえ思った。
「信じてくれるか分かりませんが、私は並行世界の住人でしてね」
「なるほど」
「法務街の関係者ではなく、隣町の濃霧街って所の人間なんだ。基本、街同士の繋がりは希薄で交流なんて殆どないけど、九段さんは僕の街の所まで来てくれてね。法務街側も黙認してくれているみたいで、最近になってようやく繋がりが出来そうなんだ」
彼のお陰だよと男は笑った。箕島にとって、そしてここの世界の住人全員にとって、この話は信じ難いものだ。しかし、今まで頑張って九段を探してみても有力な情報は掴めなかった。なんなら、自分以外の人間はみな彼の事を覚えていないようにすら見受けられた。突飛な話だが、彼から色々と話を聞き出せれば、当初の目的が達成出来るかもしれない。
「あっ、申し訳ない。名乗るのを忘れていました。私は橋込零時と申します。濃霧街の管理人でしてね、箕島さんのことは九段さんからよく聞いています」
「そうだったんですね」
「ええ、唯一の親友だと楽しそうに話していました」
箕島は嬉しい気持ちになった。橋込は話を続ける。
「それでですよ、彼や私が住んでいる世界に行く方法を知りたくありませんか?」
「それはもちろん。あるんですね、九段に会える方法が?」
箕島は食い気味に訊いた。
「香水を体にかけてほしいんです。住人にも既存の客人にも当てはまらない、つまり、並行世界の存在を前々から知っている人間が入る際は、その世界で作られたものを体に身につけなくてはいけない。そして、夜の総武線に乗って目を閉じるのです。そうすれば、法務街に招待されるための資格を満たせます」
香水か。確かに、Campus Mazeにはヒロトが香水を渡されるシーンが書かれてあった。しかし、作品が見つかった時は香水は近くに置かれていなかったはず。一体どこにあるのだろうか?
「香水に関しては、海藤さんという方に渡したと彼から聞いています。確か、この街にある洋菓子屋の店主さんでしたっけ?なので、すぐに見つかると思います。招待状に関しては九段さんにお願いしておきます。こういう珍しいタイプの客人は、たしかヒトクチやカグラが書かなくても問題ないはずです」
「ありがとうございます。そっちの世界のシステムは、あまりよく知らないので助かります」
箕島は丁寧に説明してくれた礼を言った。橋込はいえいえと返した。
「あくまで、九段さんがあなたに会いたいと言っていたからお手伝いしたまでです。法務街の管理人は忙しくしていますからね。私も管理人ですが、濃霧街は人数が少ないので時間に余裕があるんですよ」
そう言った後、彼はハハッと笑った。箕島は、九段が再開を望んでいる事を喜ばしく思った。ちゃんと彼との思い出を記憶に留め、行方を探し続けたのは無駄ではなかったと感じて息を吐いた。
「失礼、そろそろ行かなければならないので。並行世界にはいつでも行けますよ。よかったら私の街にも遊びに来てください」
橋込はベンチから立ち上がって、軽く会釈をして去っていった。突然来て、重要な情報を渡して、さっさと去っていく嵐のような人だった。こうしちゃいられないと、箕島はすぐにrecollectionの方角へ向かった。
――――――――――
「海藤さん、宏人が残した香水って持っていますか?」
店に入ってきてすぐに、そんな質問をされた海藤は驚いていた。何故彼が香水の事を知っているのか?そして何故それを欲しているのか?店主にはさっぱりだった。香水の存在は九段から秘密だと言われている。だから、みんなに教えたくても教えられなかったのだ。もしかして、勘でたどり着いたのだろうか?それとも、まぐれだろうか?
普段話すのが好きな海藤が言葉に詰まっている。もしかしたら、素直に言えない何かがあるのかもしれない。箕島は少し焦った。
(まずいぞ……もし責めるような口調で話してしまったら、何も言わないかもしれない……そうだ!)
箕島は、咄嗟にそれっぽい嘘をつくことにした。
「実は、九段が香水の事について話していたことを思い出したんです。大学を卒業する直前に、お気に入りの香水があるから今度洋菓子屋に来てくれって。結局その時は行かなかったんですけど、何度かここに通っていくうちに気づいたんです。ここがその洋菓子屋じゃないかって」
彼は話を続ける。
「だから、もしそうなら見せてくれませんか?物語にも香水が出てくるので、どうしても気になるのです」
ああ、聞いているのか。それなら大丈夫だな。海藤が心の中でそう言っているように見えた。少し待ってくれと彼は奥へ消えていった。
「お待たせ。これだよ、宏人が言っていたやつは」
目の前に緑の瓶がトンと置かれた。箕島は触らずにそれをじっくり見る。深い緑色で、飲み物の瓶のような形だ。上にある黒いキャップを外したら、スプレーが出てくるのだろう。本当にあったんだとつい口から洩れそうだった。
「宏人が最後にここに来た時、確か去年の3月だったかな。これを預かってくれと言われた。大学を卒業した後は英語講師になるけれど、もし仕事が肌に合わなかったら理想の場所に行くとだけ言い残して、手紙を置いて去って行ってしまった。僕はその場では何の話をしているのか、訊くことが出来なかったよ。てっきり仕事を辞めて、違う業界に入るという意味だと思っていた。そして、君が来るまではこの街の人たちは彼の存在を忘れていた。あんなに個性的な人間だったのに」
自分が信じられないという表情をして、彼は手紙を渡した。箕島はそれを読み上げる。
「誰にこの手紙を渡すかで迷ったが、小さい頃からの知り合いで、かつ静かに背中を押してくれそうな海藤さんに頼むことにしました。正直、ファンタジーチックな話だと読んで思うかもしれませんが、ただそう考えているんだなと受けてめてもらえると嬉しいです。僕の大学生活は、間もなく終わりを迎えます。春から予備校の英語講師になりますが、正直やりたい事を仕事に選んだわけでは無く、出来る事から選んだに過ぎません。もし、この仕事が肌に合わないと思ったときは、僕は理想の場所に向かおうと思います。この香水はその場所に向かう時に必要なので、どうか守っていてください。この瓶の中身が、僕の住む場所と向かう場所を繋ぐ唯一のアイテムなのです。無くならない限り、いつでも行ったり来たり出来る。自分自身で管理することも考えましたが、割れ物ですし、見てくれる人がいたら良いだろうと思いました。どうぞ、よろしくおねがいします。九段宏人」
彼も橋込さんに、再び並行世界に行く方法を教えてもらったのだろう。手紙に書いてある通りに推測すると、英語講師という職業がやはり肌に合わず、そして社会人としての経験を積んでいる最中に何か文句を言われたに違いない。例えば、声が変だとか、何とも言えない空気感を纏っているだとか、手の動きが変だとか。もし最後のを言われたのなら、かなり傷ついたはずだ。彼は感情が動くと手が震える癖がある。特に、喜びや嬉しさのような正の感情の時はそれが顕著に現れる。だから彼は人前ではあまり喜ばないようにしていると以前語っていた。例外として箕島や緑の街の住人など、ごく一部の人間には素直に感情を出していた。そのことを、唯一の親友はよく知っていたのだった。
「でもまあ、教えてもらっていたのなら隠す必要は無い。宏人を探すんだろう、裕太郎君?さすがに瓶をそのまま渡すわけにはいかないが、使いたくなったときはいつでも言ってくれ。応援している」
海藤は笑顔で、箕島の肩をトントンと叩いた。
「ありがとうございます。使う時はまた来ますね。今日はこれで失礼します」
またねと言う店主にお辞儀をして、彼は自宅へと向かった。本当はすぐにでもあの香水を使いたかったのだが、興奮状態になっている今、容易に並行世界に入るべきではないだろうと会話をしている時に思ったのだ。橋込がまだこの世界にいるのかもしれないし、もしそうなら九段も招待状を書いてはいないはずだ。少し落ち着いて、心の準備が出来てから行こう。彼はそう決めたのだった。
――――――――――
「やあやあ、時間通りと言ったところかな」
上野のアメ横街で、橋込がとある男性に話しかけている。その声に反応して、彼は顔を上げた。
「そういうところですね。ちゃんと吉井君とは交流が深められましたよ」
そう返した言葉に、橋込は笑顔になる。
「Campus Mazeについて、何か聞き出せたかね?居無君」
「はい。彼から日本語版なるものを手に入れました。お友達が翻訳したものだそうですが、英語が堪能らしく、翻訳は正確だろうと言っていましたよ」
居無は、カバンから紙を取り出して、橋込に見せる。
「上出来だ。さっそく私の行きつけのカフェで、休憩でもしようじゃないか」
直後、彼はカフェに向かって歩き始めた。居無は彼の後をすぐに追った。数分後、とてもオシャレそうな店の前に来た。
「そういえば、入る前に確認しておきたいことがあってね」橋込は、右手の人差し指を立てた。
「何でしょうか?」
「君は、タバコのにおいは嫌いかね?ここの内装は綺麗だし、パフェはとても美味しいんだが、如何せん喫煙者が多い。私自身は吸わない人間だが、パフェのためなら許容できる、そういう人間なんだ。君はどうだい?もし苦手だったら場所を移すが」
「いいえ、大丈夫ですよ。僕も吸わない人間ですし、パフェが気になります。そして、並行世界にはタバコが存在しませんからね。現実世界にいるんだって事を認識できる、いい体験になるでしょう」
「そうか、それはよかった。ならば、さっそく入るとしよう」
2人は、階段を上って店内に入った。いらっしゃいませ、という男性店員の声が、間髪入れずに彼らを少し変わった空間に引き入れたのだった。
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