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ようこそ
ガラス製のランプと黄色い灯り、結構前に造られたのであろうオブジェ、何十年も前から親しまれているメニューの数々、そしてなによりも、喫煙者がマジョリティーである空間。現実世界の人々は、こういう場所を「レトロ」と呼ぶのだという。これらの要素は、「昔」の象徴であるのに、「今」の若者に受ける。橋込は居無にそう説明した。
「もっとも、タバコはさすがに好まれないだろうけどね。この世界では今禁煙ブームなんだ。日本だって例外じゃない」
笑う橋込に居無は頷いた。そしてメニュー表を取った。既に頼む品は決まっているが、一応「レトロ」なるものはどんな感じなのかをちゃんと見ておこうと思ったのだ。パフェ以外には、ナポリタンやサンドイッチなどの写真が載っていた。飲み物系統では、メロンソーダなどがレトロの部類に属するのだろうか。居無は、ここの世界の人間だった時の事を思い出そうとした。しかし、出てくるのは並行世界での記憶だけだった。
「もしかして、他に何か頼みたいものでもあるのかい?なら、言ってくれて構わないぞ」
橋込の親切に少し驚きながらも、お気になさらずと返した。
「そうか、なら予定通りでいこう」
彼は手を挙げて店員を呼び、パフェを2つと頼んだ。そして、目の前にあったコップに手をつけた。
居無は窓の外を眺めた。ここの通りはいつも繁盛している。上野駅から御徒町・秋葉原方面まで、店が所狭しと並んでいる。あるサラリーマンは露店で酒を飲み、ある女子高生はケバブを食べ、ある男子大学生はチョコレートのたたき売りに参加していた。そして、ここでは紙巻タバコを加えながら、どこか物憂げな表情で遠くを見つめる女の人と、なんとかなるさと声を掛けると男の人がいる。色んな人がいて面白い。そして、この世界で面白いと感じる度に、自分は元々どんな人間だったのだろうと考えてしまうのだった。
並行世界は、所詮は現実世界の補助として存在しているに過ぎない。橋込や居無が住んでいる所は、無数にある並行世界の中の、無数にある場所の一区画だ。橋込が濃霧街をつくる前までは、法務街がその区画の唯一の街として機能していた。居無は法務街の客人であった頃、偶発的に置いてあった手鏡を拾ってしまい、映し出された「現実」に耐えられずに外に出た。そして、彼は本来の名前を失い、そのまま幽霊に近い存在となってしまった。言い換えれば、並行世界では見えない存在として扱われ、現実世界では行方不明ではなく死亡したとみなされる、どこにも行けない存在となってしまったのだ。橋込はそんな彼を救ってくれた恩人なのだ。居無自身が見た事ではないが、どうやらあの後に当時の管理人同士で紛争があり、橋込はその戦いに負けて追い出されたのだという。
――――――――――
あの時は、ヒトクチとカグラが管理人ではなく、地区ごとにそれぞれのリーダーがいた。橋込は、もう存在しないK地区の管理人だった。K地区はかつてF地区と並ぶマンションのような建物だった。しかし、現実世界でY棟の工事が終わるのと同時に、K棟の解体が決定したのだ。モデルである法務大学の造りが変わるとなると、法務街でもその影響を未然に防ぐために、K地区を無くし、Y地区の管理人を橋込にしようという話になったのだ。しかし、彼にとってそれは納得の出来ない話だった。ただ彼の役職を変更して、K地区の住人・客人を移動させておしまいではなく、もっと踏み込んだ話をしなくてはならないと感じたのだ。
彼はとある日の夜中、皆が寝静まった後にS地区の講堂に他の管理人を呼び出した。6階と7階をまたぐ場所は、5人だけの場所としては広すぎるくらいだった。橋込は、K地区の廃止は問題ないと前置きをした後で、街の構造が変わる今、並行世界の諸問題を解決するべきだと訴えた。具体的には、区域外を彷徨う「幽霊」の救済と、現実世界に戻った後の記憶の取り扱い方についてだった。
「この街に人が絶えず来るのは何でだと思います?現実世界であまりにも疲れてしまっている人が多いからじゃないんですか?住人も客人も、ここで癒されたとしても、叶えられなかった夢を叶えたとしても、元の世界に戻ったら振出しに戻るだけです。誰も夢を見た時の記憶なんて、そう鮮明に覚えていないでしょう?つまり、ここで過ごした日々は忘れ去られていくんです」
「だから何だ?何が言いたいんだ?」
管理人の1人が声をあげる。
「記憶はしっかりと残すべきなんです。せっかく立ち直る決心がついたとしても、戻ったら夢落ちで終わりですよ。手鏡を使って、つらい試練を乗り越えても、何を克服したかを忘れてしまっては、またこの街に招かれるのは決まっています。私たちは、本当に役に立っているのですか?幽霊の存在だってそうです。試練を乗り越えられなかった人は、名前を奪われ、現実世界での記憶も奪われ、私たち管理人以外は目に見えることもない。向こう側で待ってくれているかもしれない、愛おしい人たちも、死亡も同然と伝えられて打ちひしがれているかもしれません」
周りの管理人たちはみんな黙っていた。重苦しい空気が流れる中、数十秒の沈黙を破って、先程の管理人が口を開けた。
「記憶を夢という形に留めないと言う事が、どれほど重大な行為なのか分かっているのか?並行世界の存在が、現実世界の人間に公になるという事だ。不平等が原則となっている世界の住人が、誰もが幸せになる並行世界に行く方法を知ったら、むしろ来ようとする人が増えるんじゃないのか?洪水の様に押し寄せて、君が心配している幽霊の数が急増するんじゃ無いのか?それとも何だ?法務街そのものを解体して、俺たちは無職となり、休息を求めている人たちの手を払いのけろとでも言うのか?勝手なことを言わないで頂きたい」
他の管理人も追随するように頷いた。橋込は苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。彼は話を続ける。
「あと幽霊の存在についてだが、彼らは我々の静止を振り切って外区域に行ったんだ。ここに来る前にちゃんと忠告はしているだろう。それにも関わらず出たのなら、我々はかばう必要は無い。そうだろう?」
箕島は何か間違っていると感じて、咄嗟に反論しようと口を開いた。しかし、感情が喉に蓋をしていて、思うように言葉が出なかった。
「我々としては、今までのシステムを維持しつつ、円滑に街の構造を変えたいんだ。君以外は誰も街の変革は望んでいない。そもそも、これらの問題は前の代からずっと話になってきたが、その都度解決は困難として終わらせているんだ。理由は単純だ。こっちの世界とあっちの世界のギャップが激しいんだよ。君の考えは理想的だよ。でも、それでは平和が基本の世界と、競争が基本の世界のバランスが保たれないんだ。分かっている事だろう?」
彼は畳みかけるように話をして、橋込が反論できる余地を削り取っていった。
「我々としては、君に新たな地区の管理人となってもらい、そこの住人・客人を円滑に移動してもらいたいんだ。このままのシステムで良いじゃないか。何世代にも渡って継承されてきた最善のシステムなんだ。協力してほしい」
うんうんと他の管理人たちも頷く。このまま一緒にやろうとみんなが言う。ただ、橋込は説得されてもどうしても納得がいかず、彼らの問いかけには答えないでそのまま講堂を去った。
そこから先は新たな街を作る構想を立てた。まず、相棒であり、K地区の実質的な副管理人である見附楓太に頼み、それなりの土地を探して貰う事にした。彼は橋込の良き理解者であり、街の改革にも賛同していた。しかし、実際に行動に移される可能性が無くなる事を聞くと、すぐに橋を渡って奥の方へと向かった。向かい側には、幽霊のようなものが彷徨い続けており、声を掛けても反応はしない。ただ、副管理人という肩書は非公式のものなので、彼らの事は見えていなかった。そして、石造りの階段を上った先に空っぽの住宅街がある事に気付いた。おそらく、ここの並行世界は飯田橋駅、法務街、市ヶ谷駅までは再現されているが、そこから遠くの方や奥の方は再現がされていないのだろう。ここら辺は、建物という空っぽの器だけが残っていて、「人」という名の入れる中身が伴っていないのだ。見附はこれをチャンスと考えて、橋込に報告した。
次に、橋込はK地区の住人と客人に向けて、現実世界の都市開発の影響でここが間もなく解体されるとビラで伝えた。そして、彼らに向けてアンケートを開始した。質問はたった1つだけで、解体後はF地区に移住したいかであった。締め切りを週間後に設定して、投票箱を設置した。締め切り後に蓋を開けると、大半が「はい」であったが、ごく少数の「いいえ」が含まれている事に気付いた。彼は「いいえ」に丸を付けた住人・客人に個別に話を聞き、見附が撮って来た写真を具体的な内容を伏せて見せた。すると、結構好意的な反応が見えたので、移住先はここで間違いは無いと確信した。ちなみに、「いいえ」にした人たちに理由を聞いたところ、K地区に思い入れがある事や、移動の時点で現実世界に返されることを恐れているという事らしい。確かに、全員が移住となると店員オーバーとなる可能性があり、人数の削減を求められるのはおかしい事ではないとその時に感じた。
見附によって空き家が次々と掃除される中、橋込は最後の準備を行った。「いいえ」の集団から、一番しっかりしている女性、藤野咲恵を選び、彼女をリーダーにして、集団の中での情報共有をさせた。移住する時に、はぐれてしまう人がいたら問題だからだ。他の管理人に内緒で大規模な事を行うのだから、関係者は全員、正確で同じ情報を持ち、さらにそれを隠し通さなければならない。橋込や見附が直接賛同者に一人づつ計画を話すより、リーダーから秘密裏に行ってもらう方が都合が良い。日曜日にK地区の解体が決まった時は、数少ない仲間で盛り上がったものだ。てっきり、「はい」の集団や他地区の人からは、新しい地区に引っ越せると思っていたようだが。
そして決行当日、移動する時間帯である昼はみんなそのまま法務街に留まった。「はい」の集団はそのままF地区に移り、「いいえ」の集団はホテルBに泊まり、翌日どうするかを管理人たちと話し合うという事になっていた。橋込はその予定を利用して、ホテルBの管理人に、夜になったら現実世界に帰る人がいるから裏口を開けておいて欲しいと頼んだ。賛同する住人・客人の幽霊化を防ぐため、彼らには荷台に乗ってもらい、それを橋込と見附が運ぶという形を取った。そして月が道を照らす中、誰もいない裏口からこっそりと反逆者たちは静かに新しい街へと向かった。
街に着いた後、橋込と見附は法務街での肩書を捨て、「共同管理人」という職に就いた。次に、「客人」という振り分けを廃止し、「住人」に統一した。その後住人たちは家を割り当てられ、中に入ってもらうと、橋込は街を2分割にして、幽霊たちにこっそりと声を掛けた。新たな街の事を伝えて、反応してくれた幽霊たちには、大きな家に招待してそこで共同生活をしてもらう事にした。最初こそ普段通り生気の無かった彼らだが、時間が経つと徐々に人間に戻っていき、最後には住人たちにも見えるようになった。その中の1人が、居無というわけだ。住人達には、新たに法務街からやって来た人たちだという説明で、納得させた。
翌日、朝から法務街内では大騒ぎとなった。いいえと答えた住人・客人が忽然と姿を消しただけではなく、K地区の管理人と事実上の副管理人も消えてしまったのだ。各地区の1階に、橋込からのメッセージが貼ってあったのだ。
「本日、我々は法務街から分離独立する。新たな街を作り、ここでのシステムとは違う方法で、幸福な生活を築いて見せる。引き留めようとしても無駄だ、すでに動いているのだから。橋込零時」
残った管理人たち、特に橋込と衝突した管理人は怒った。何とかして、街を解体しようと試みたが、区域外で起きた事という事で何もアクションは取れなかった。この事件は、当時の住人・客人たちにもすぐに伝わり、不安が広がる原因となった。中には、ここは安息地では無いと言い張る人物が出てきたり、何か不都合な事を隠しているのではないかという噂が出てきたりした。混乱の責任を取るとして、結果的に当時の管理人全員が職を辞めて現実世界に戻った。そこから、次期管理人に、候補であったヒトクチとカグラが選ばれた。そして、多少システムを変えて今に至る。
――――――――――
「おまたせいたしました」
店員が2つ、丁寧にパフェを置いた。居無はそれを見て、実に美味しそうだと思った。橋込には世話になりっぱなしだ。事故で鏡を見て幽霊になり、しばらく外を彷徨い続けていた所を拾われて、新たな街の住人になった。濃霧街という名前は、居無の様に助けてもらった元幽霊たちが、お礼として法務街側から見えないように霧で街を覆うようになったのが由来である。今でも、橋込は彼らの救済を続けている。たまに現実世界に連れて行って、色んな事を経験させたりして、本来の自分を取り戻すきっかけを作ろうとしているのだ。
最近までは濃霧街でのご飯台を賄うために、現実世界に簡単に戻れない住人を除いて、色んな店を開いて働いてきた。居無自身も書店の店員なのだ。パンケーキ屋さんに吉井を連れて行ったのも、濃霧街の元幽霊達が働いている所だからだ。近頃は、法務街との関係が改善してきたこともあって、無償で食事代や衣服などが送られてくる様になった。このままいけば、正式に第2の街としてみられ、自由に行き来できる生活が来るかもしれない。街同士で支えあうのが普通になっていけば、もう元幽霊たちも現実世界で働く必要は無い。まだ彷徨っているかもしれない幽霊たちも、見つけ出して元に戻す動きが出てくるかもしれない。そうすれば、幽霊問題も解決に向かうだろう。
「このさくらんぼ、いい赤色をしていると思わないかい?」
橋込は、持ち上げて笑った。確かに、綺麗な色をしているなと彼は思った。
「そうですね、ではさっそくいただきますね」
どうぞどうぞと言う声を聞いて、彼はスプーンを動かした。アイスクリームの冷たい感覚が舌を刺激する。そしてそれが終わると生クリームの甘さが、次にシリアルのザクザク食感が舌にやって来る。並行世界にはない食べ物なので、こういう経験が出来るのはとても貴重だ。
「すごく美味しそうに食べるじゃないか。紹介したかいがあるというものだ」
「ありがとうございます。何から何まで助けてくださって」
「いやいや、私は私のしたいと思った事をしているだけだよ。君も自分の心に従うと良い。新しい名前を、自分自身に授けたようにね」
「分かりました」
食べ終わった後、2人は見附と藤野に報告するため、並行世界に戻ることにした。タバコのにおいを身体中に纏い、人ごみの中を進んでいく。居無は、いつか本来の自分を取り戻して、現実世界で新たな生を受けるのを最終目標にした。もちろん、さっさと前世を忘れるのは簡単だろう。でも幽霊を経て人間に戻ったのなら、そんな選択はしたくないと感じていた。
「箕島君が来るのが楽しみだね。親友に会わせてあげられるんだ、九段君もきっと喜んでくれるだろう。そして、もうすぐ私の望んでいた世界もやって来る。あと2ヶ月近くで」
居無は、橋込が何を企んでいるのかは敢えて訊かなかった。前から、理想の並行世界を作ることを目標としていているのは知っていたが、具体的には何を指すのかは知らなかった。しかし、彼は優しい人間なのだから、きっともっと多くの人を救える世界を作るに違いない。僕は彼に恩返しをしながら、失われた記憶を取り返そう。そう決意して、橋込と共に人気のいない路地に消えて行った。
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