ふらつき坊や

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ふらつき坊や

「僕らは記憶に囚われて動けなくなって、頭を抱えてどうしようもなくなっている。ここからが最高だってことを気づかないままで」 J-POPの大御所、Kritik Townsend(クリティックタウンセンド)が昔の曲をテレビで披露していた。30年以上ボーカルとギターの2人だけでロックを追求し続けている彼らの音を、吉井優(よしいゆう)は黙って聞いていた。今では滅多にメディアに出ない彼らが、ブラウン管越しで動いているのが彼にとっては嬉しい出来事であった。同時に、画面上に映る曲の歌詞を読みながら自分自身の事を考えていた。 彼らが言う通り、人は過去の事を思い出しがちである。まだ19歳だと言うのに、周りの人はすでに小学生の頃に戻りたいと良く言っている。この現象は人の話を直接聞いている時も、インターネット上で同世代の人たちの投稿を読んでいる時も見かけるのだ。吉井が予備校生だった時も、比較的若めの講師が「若いっていいなあ」と彼を羨ましそうに見つめながら言ってきた。 当時の吉井は、その感覚がよくわからなかった。表情を崩さずに、「そうですかね」と返したことを覚えている。その講師が今何をしているかは分からないが、その時に肌で感じた空気や景色やらを思い起こして、懐かしいなと思った。その事がきっかけで、昔の記憶が次々と溢れ出してきた。遊具の上に乗ってただ空を見上げていた事や、暖かいストーブの斜め横で分厚い小説を読んでいた事。授業が無くなり、皆で校庭に出て雪合戦をしたことも、家族と一緒に天丼をうまいうまいと言って食べていたことも、引っぱり出せば出すほど心地よい湯舟に使っているかのような気持ちになった。 「Kritik Townsendで『追憶』でした。ありがとうございました!」 吉井は女性アナウンサーの声を聞いてはっとした。せっかく彼らがテレビ出演しているというのに、なんで集中して曲を聴かなかったのだろうと後悔した。となりにいる男性MCが進行を続ける。 「彼らがテレビに出るのも久しぶりだけど、『追憶』を演奏するのも珍しいね」 「そうですね。8年前の曲ですし、今日まで1回しか披露していませんでしたから」 せっかくのチャンスだったのに、本当に何をしているのだろう。吉井の心は、今や湯冷めした後の体のようになっていた。古き良き思い出になるはずの出来事を自ら手放したようでならなかったのだ。そして、彼は「追憶」の冒頭の部分の歌詞を思い出した。 「僕らは記憶に囚われて動けなくなって、頭を抱えてどうしようもなくなっている。ここからが最高だってことを気づかないままで」 ボーカルの声が再び頭の中で聞こえた時、吉井の心は完全に冷え切っていた。それはまるで、風呂から上がった後に満足に体を拭かずにベットに寝そべり、そのまま夢を見てしまった時のような感じだった。風邪をひいているのだ。しょうもないと思っていたのに、気づいたらそっち側になっていた自分に気付いて怖くなった。 吉井はいままでの人生を平坦だと思って生きてきた。一生を1本の線として例えると、他の人が上がり下がりを経験してドラマチックな線を作り上げているのに対し、彼はただ直線に近いものを引いているだけだ。よく見れば多少の動きはあるかもしれないが、他人と比べれば大したことがないものだ。他の人たちは、過去の線の振れ幅を振り返って、あの頃は楽しかっただの、平和だっただの、ドラマがあっただのと言うのだと思っていた。しかし、彼はついさっき無意識で周りの人間の真似事をしてしまった。それは今後平坦な人生を歩み続ける事になっても、それはそれで満足であると感じながら一生を終えるという意味にとれた。 「そんなのはいやだ。僕はもっとドラマチックな線を引いて見せる」 吉井はひとりでつぶやいた。テレビでは最近話題らしいアイドルグループの歌が流れていた。彼はさっさと電源をオフにすると、ノートとシャープペンシルを取り出して良い線を引く方法を考えた。 「でも、どうすればいい?」 いままで行ったことのない事を急に行うのは、やはり難しいものだ。頭の中で、Kritik Townsendのメンバーに助けを求めても、彼らは何も答えてはくれない。そもそも、雲の上にいるような人たちに直接会う事さえも叶わないだろう。とりあえず、彼は過去に楽しいと思った事や、懐かしいと思った事をノートに書きだした。そして、小さな上がり下がりをじっくりと観察していくと、初めに線の変化が起こったのが幼稚園児の頃だった。 その当時、吉井は緑の街に暮らしていた。今住んでいる場所や、通っている大学からそこまで遠い場所ではなく、行こうと思えば行ける距離だった。しかし、引っ越した後も年賀状で当時の住人と交流を続けていたので、わざわざ行く必要も感じていなかった。それでもなお、環境が変わる度に吉井は緑の街での日々を思い起こしていたのだった。洋菓子屋recollection(リコレクション)を営む海藤修司(かいとうしゅうじ)や、幼稚園の先生兼資料館の館長である町田朱音(まちだあかね)など、あの時は魅力的な大人が周りにいて、彼らに触発されるように吉井も今にしっかりと焦点を当てて生きていたのだ。それなのに、学校というシステムに組み込まれてからは、瑞々しい今はすっかりなくなってしまったような気がしてならなかった。小学校の卒業式の時も、同級生が泣いているなかひとりで「なにが思い出いっぱいだよ」などと思うくらいには疲れていたのだった。 きっと、このように悩み続けているのは今という日々に潤いが無いからだろうと彼は考えた。今は夏休み終盤の9月中旬で、これからまた授業で忙しくなってしまう。ならば、10数年ぶりに緑の街を再び訪れて、彼らと直接会話をして、現状を打破するための手掛かりを見つけようと思った。この方法を思いついたとき、彼の気分はとても高揚していた。冷え切っていたはずの心は、サウナに入っている時のように熱くなっていた。とはいえ、突然向かうのも申し訳ないので、まずは資料館の方に電話をかけて町田に何日が都合が良いかを訊いてみる事にした。彼はクローゼットの奥の方にしまってあるファイルを取り出して、今年の年賀状を見た。そして、そこに書いてある電話番号に連絡をした。 「はい、資料館の町田です」 「大変ご無沙汰しております。吉井優ですが、覚えていらっしゃいますでしょうか?」 「吉井……、ああ!優ね!久しぶり!元気にしてたの!?」 スピーカー越しから明るい音がした。まだ街にすら移動していないのに、既に懐かしい。まるで消えかかっていたロウソクの日が、別のロウソクに移されたかのような安心感だった。 「あのですね、近いうちに緑の街に行きたいと思っていまして」 吉井はそのまま会話を続けた。 「あら、来てくれるの?」 町田は嬉々とした声で答える。 「はい、それでせっかくですのでお話がしたくて、時間が取れるのはいつ頃かなと」 「なら、明日来ちゃいなさいよ」 「明日!?」 「ええ、明日」 「分かりました。では明日の昼頃に伺います。海藤さんにもよろしくお伝えください」 「はーい!」 「では、失礼します」 通話を終えた後、吉井は不思議な気持ちになった。いくら年に1回ハガキでやり取りしているとはいえ、こんなにもスイスイと物事が進むだろうか。幸いにして、明日は授業を一切入れていないので町田とゆっくり話せそうだと思った。兎にも角にも、彼は瑞々しい今を取り戻すための冒険を始める事になった。 翌日、吉井は早速電車に乗った。自宅から何本か電車を乗り継げば、緑の街に入れる。車内にいる間は、東京で過ごした日々や今の大学生活を思い起こしていた。彼は東京には住んでいないが、この大都会で沢山の思い出を作り続けている。その最初の思い出が緑の街だった。大量のビル群と人を飲み込む東京という生き物が腹の中に収めた、数少ない緑豊かな街。木々がたくさん生え、野鳥が飛び交い、湖が静かに動いている。その中で、資料館や洋菓子屋が街の一部として上手く溶け込んでいるさまを見ていると、幼いながらに自分の心が動いていることが分かった。 その後は、地元の学校に通いながらもちょくちょく東京に遊びに出かけるという感じだった。渋谷とか、原宿とか、お台場とか、その都度仲良くなった人たちと行き、流行っているものに少しだけ触れ、雑談しながら帰るという行為を繰り返していた。予備校生だった頃は、学校が東京にあったので帰り際に寄り道してから帰るなんて事も度々あった。国全体の人口が縮んでいく中で、誰も拒まずに受け入れて膨らみ続けていく東京に、吉井は感動すら覚えた。いずれは、この洗練された場所に見合うような大人になりたいと思いながら、窓に映る景色を見ていた。 「次は、緑の街、緑の街です」 機械のアナウンスが聞こえて、吉井は社内を離れた。駅のホームに降り立った瞬間に感じる懐かしさ。景色はあの時と全く変わっていなかった。変わったのは、せいぜい右手に持っているのが切符からICカードになった事くらいだった。緑のカーテンを抜けて、目の前に映るのは小さな入り口。そこをくぐると、資料館が見えた。白い壁を持った建物は、少し古くなっているようだった。 入り口付近で誰かが手を振っているのが見える。間違いない、町田朱音だ。あの薄ピンク色のエプロンと、ポニーテールの髪型は、この街では1人しかいない。 「久しぶり〜!会いたかったよ〜!!」 町田は吉井の方へと走って向かってきた。 「お久しぶりです」 吉井はとびきりの笑顔で挨拶に応えた。2人はそのまま建物の中へと入り、ゆっくりと話すことにした。 「それにしても、大きくなったねえ」 資料館の2階にあるフリースペースで、向かい合うようにしてテーブルの席に座っている。手元には、町田が注いだカモミールティーが置いてあった。ここは3階建てになっており、1階が住人が作った作品の展示場であり、2階が住人が持ってきた作品を置く場所である。3階は町田の部屋になっているらしく、入ったことはない。つまり、今は古い本や高い価値があるであろう絵画などに囲まれながら喉を温めている。 「顔を合わせて話すのは十数年ぶりですからね。5歳くらいの子供が20歳手前になって帰ってきたら、ビックリするくらい違って見えるでしょう」 吉井はそう言って、じっと町田の顔を見ていた。初めて会った時にはすでに大人であった彼女は、長い年月を掛けてもなお変わっている所がひとつも無いように思えた。明るい声や、優しさに溢れた顔も当時のままだ。もしかしたら、この人の周りは時が止まった状態なのではないかと想像した。 「そんなに見つめられると緊張しちゃんだけどな」 そう笑って言ったのを聞いて、すみませんと吉井は少し目線を下げた。いいのいいの、と町田は空になった彼のティーカップにお代わりを注いだ。そして、今度はカップに口をつけている姿を見て、優もそこまで変わってはいないよ、と彼女はつぶやいた。彼女は自分の思っている事が分かっているのだろうか、と不思議に思った。今の彼にとって、彼女は一種の魔法使いのように見えたのだった。 「そういえば、なんでここに来たかったんだっけ?」 町田の質問で吉井ははっとした。そう、彼は別に里帰りしに来たわけでない。平凡である人生を送る中、ただ過去の出来事に心を奪われて、今という日々が干からびているのをどうにかしようと思ってやって来たのだ。彼はなるべく丁寧に説明をした。おそらく同世代の人間の所に行ったとしても、真剣には取り合っては貰えないだろう。だからこそ、目上の人の助けが必要だと、最適な言葉を選びながら話した。 町田は真剣な表情で吉井の話を聞いていた。ただ、簡単に答えは出なかったようで、悩ましい表情をしていた。そして、彼女はこの問題はすぐには解けないし、なんなら一生解決しないかもしれないと伝えた。そうですかと吉井はガッカリした声で言った。 「でも、今まで以上にドラマチックな線を引くことは出来ると思うの。優の悩みって、過去の事について考える時間があるから出てくるんだよ。どうかしら、ここで思い出作りでもしていかない?優さえかまわなければ、色々とやってほしい事があるの」 「もちろんです、よろしくお願いします!」 吉井は即答した。このまま話したとしても、結局昔の思い出を振り帰って終わりになってしまう。そうしたら、何も得ないまま日常に戻るだけだ。それは一番やってはいけない事だと考えた。 「ありがとう~!じゃあ、まずは昔みたいに下の名前で呼んでもらおうかな」 「はい、朱音さん」 「よろしい」 町田が得意げな顔をしていると、上の階から足音が聞こえた。そのまま階段の方に目を向けると、女性が立っていた。
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