へんしん

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 目覚まし時計の単調な音で目を覚ました。気怠げな朝だ。月曜日。二日間の休日から、人々が失望しながら、嫌々と起き出す午前六時。勿論、僕もそんな国の常識に逆らわないように、嫌々布団を取ろうと腕を少し動かした。......あれ。布団はいつもの力では払い除けることが出来なかった。小さな違和感に少しの疑問を感じつつも、まだ自分が寝ぼけているのだろうと、もう一度腕に力を入れた。が、腕を上手く操ることが出来なかった。寝ているうちに腕に怪我をしまったのだろうか?確認の為、右腕を四苦八苦して布団から出した。  その頃にはもう目覚まし時計は勝手に止まっていて、僕の目はすっかり冴えてしまっていた。僕は目より身体の方が先に目覚める性だった。そんな僕の目が捉えたのは、黄金の体毛が絡まった腕だった。僕は慌てて左手も出す。こちらの腕も黄金の体毛が付いていた。そういえば、部屋の中が何となく獣臭い。まさか......。部屋の中をぐるりと見渡すと、壁にかかった小さい鏡に自分の姿が映っていることに気づいた。顔にも生える黄金の体毛。つぶらで真っ黒な瞳。でろりと垂れた桃色の舌。僕は数秒硬直した。この生き物はまさに......。  その時だった。部屋の扉を煩く叩く音が聞こえた。扉の外から甲高い声がする。 「起きなさい。いつまで寝ているの。学校に遅刻するわよ」 母親の声だ。母親は相手の私的空間を大切にする人で、いくら扉に鍵がかかっていなくとも、いくら自分の子供の部屋でも、勝手に人の部屋に入ることは無かった。 「ねえ、あんた具合でも悪いの?返事をして」 優しい声色だった。そんな母親に僕は先程から返事をしようと奮闘していた。しかし、上手く声を出すことが出来ず、「ウゥ」とか、「グゥ」のような低いかすり声しか出なかった。 その時突然、赤ん坊の泣き声が家の中に響いた。15歳下の妹の泣き声だった。 「あらあら!」  そんな母親の声は、階下へ向かうドタドタとした足音と共に、扉の外から消えた。僕はため息をついた。つかの間の一息だ。とりあえず、僕は布団から這い出ることにした。身体をぐねぐねと曲げ、布団を剥いでいく。いつもの僕の身体より、この身体の方が柔軟性が高く、自分の予想以上に身体が曲がった。  布団から這い出る時、僕は遠い昔に読んだ小説を思い出していた。ある朝、巨大な毒虫に変わってしまったグレーゴル・ザムザ。フランツ・カフカによる小説、『変身』。僕はグレーゴルと同じ状況に陥ってしまっていることに気づいた。だが、僕が変わったものは毒虫ではない。しかも、グレーゴルとは時代も国も、恐らく年齢も違う。グレーゴルは家族の為に一心不乱に働く善き青年だった。僕はグレーゴルほど善き青年ではないにしろ、学校では好成績を残し、いたいけな妹の世話をするありふれた中学生の一人だった。僕はグレーゴルが辿る数奇な運命と結末にゾッと身震いをした。善良な国民がまた一人......。僕は胸に誓った。何がなんでもこの状況を変えなければ!  残念なことに、僕の母親は動物アレルギーであり、動物嫌いである。頼みの綱である父親はもう仕事に出ているだろう。何なら毒虫に変わっていた方が良いまであった。山育ちで、最近まで田舎暮らしだった僕の母親は、虫など目もくれなかっただろう。しかしそこを悔いてもどうにも出来ないし、仕方がない。  母親の階段を上がる足音がまた聞こえてきた。今度こそ扉を開けられるだろう。僕は黄金の身体をグッと低くした。新しい身体はまだ扱い慣れず、体勢を低く取るだけでも僕を悩ませた。力の入れ方が前の身体とは違う。前の身体は二本足で、こちらは四本足だからだ。三回のノックと 「ごめんね。入るわよ」 という母親の低い声がした。僕の許可無しに母親が僕の部屋に入るのは恐らく初であった。沈んだ様子で俯き加減で部屋に入ってきた母親は、僕の姿を認めると、動きを止め、絶句した。彼女の目は丸くなり、口をパクパクと動かした。母親に抱えられた妹だけがにこにこと笑っており、僕に手を伸ばした。緊迫した空気が流れたが、先にその沈黙を破ったのは母親だった。母親は僕の名前を呼び、 「あんたどこにいるの!どこから拾ってきたのこの獣!」 と怒鳴った。妹が母親の声に驚き、泣いた。僕は返事をするように「ヴァン」と鳴いた。その声に母親は後退りをして、傍らに落ちていた厚めの本を僕に投げつけ、扉を荒々しく閉めて、何やら叫びながら僕の部屋を後にした。  母親からしてみれば当然の話だったが、自分の息子が、獣を拾い、そのまま息子は部屋から消えてしまったと思ったらしい。  本が当たった脚は痛み、このままこの家に居続けたら、身に危険が及ぶと本能的に察知した。一つだけ逃げ道があった。半開きになった窓だった。そこから出たら、一階のリビングの前の庭に落ちる。部屋は危険だった。庭だったら、万が一、母親に攻撃されたとしても、逃げ切ることが出来る。この身体だったら、庭の塀を飛び越えることだって出来ないことはないだろう。  僕は窓淵に飛び乗った。二階から一階は思ったよりも高さがあった。脚がすくむ。生暖かい風が裸体である僕を撫でた。母親の大声が風に乗って聞こえる。僕は決意を固め、窓の外に飛び出した。
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