へんしん

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 身体全体が痛む。酷い鈍痛だ。僕はゆっくりと目を開けた。窓から飛び降りた衝撃で、気を失っていたらしい。身体は痛んだが、かろうじて動かすことが出来た。時間をかけて身体を起こすと、塀の隙間、道の向こうから、よく知っている人が走って来るのが見えた。父親だった。 彼は顔中に垂れる汗をハンカチで拭きながら、家に飛び入った。リビングの大きな窓は全開きになっていて、母親と父親の会話がよく聞こえた。 「だから、いなくなっちゃったのよ。あんな獣を置いてって」 「あの子の部屋をちゃんと見たのかい?家の隅々まで探したのかい?」 「ええ。でもいないのよ。あの子の部屋なんて殆ど何も置かれてないのよ。いたらすぐに分かるわ。あの子ったら何にも興味がないんですもの......。とにかく早く警察に言って、あの子を探してもらわなきゃ。朝起きたら影も形もなくなってたって!」 「クローゼットの中とか、布団の中とか、しっかり調べたかい?」 「......」  僕は痛めた身体に鞭を打って室外機に乗り、窓からリビングの様子を眺めた。父親が立ち上がり、リビングから出た。母親は泣いて、身体を震わせていた。 「なんであの子はいなくなってしまったの。私があの子に何かしてしまったかしら。それとももしかして、学校で虐められているの?......そう学校!あと半年で高校受験だし、もしあの子がいなくなってしまったら、勉強で遅れをとってしまう!そして、来週には部活の引退試合があるのだわ。せっかく中心選手として試合に出る予定なのに、今までの努力が水の泡になっちゃう!それからあの獣をどうしましょう」  僕の小さな妹も母親と共に泣いたままだった。そのうち、父親が乱暴にリビングの扉を開けて戻ってきた。それから母親から赤ん坊をひったくり、自分の手の中に収めた。 「いない......いない......」 父親の絞り出した囁き声が聞こえた。母親は、ほら言ったでしょう?という目を父親に向けた。父親は叫んだ。 「あいつもいないけど、君の言う動物だっていないじゃないか!」 「......もいないの?!そんな馬鹿な......」 「君は幻覚を見たんだろ」 父親はそう吐き捨てると、フラフラと固定電話に近づいた。 「どこに電話をかけるの!」 そんな母親の声を無視した父親は受話器を取り、1のボタンを押した。続けてまた1。そして彼が最後の0を押そうとした瞬間、 「やめてよ!」 悲鳴と共に、母親が父親の腕に飛びかかった。受話器は父親の手から転がり落ち、父親は必死にもう片方の腕の中にいる妹を庇った。 「あの子が警察の厄介になったことが世間に知れたら、どんなことになるか.....。せっかくここまで積み上げてきたものが、一瞬にして崩れ落ちてしまうの!」 と母親は絶叫した。 「だから誘拐の可能性だって......」 「警察になんて説明するの?夜寝て起きたら息子はいなくなってたって?家出だと嘲笑されるのがオチよ」 「既成事実作りだよ」  僕はその家族の様子を遠い目で眺めていた。とある喜劇か何かを見ているような感覚で。両親はこんな人達だっただろうか。いつも優しすぎるほどに優しい両親だった。それが今、母親はヒステリックな女と化し、父親は冷静を通り越した冷徹な男と化していた。母親が熱くなっても、父親は冷めた表情を崩さなかった。  僕は炎天下、室外機の上でそろそろ体力の限界を感じていた。この身体では汗をかけないのだ。呼吸を繰り返しても、体温は一向に下がる気配がない。必死に舌をだらりと垂らして、呼吸を繰り返した。言い争いをしている両親が二重に見え、ぐらりと揺れた。意識が遠くなる。室外機から、身体が外れた。地面までの時間がゆっくりと過ぎた。  どさり。僕が地面に落ちた音で、両親が振り返った。目が合う。母親の顔色がまた一弾と悪くなった。彼女は、低い声で何かを叫んで、逃げるように台所に消えた。対して、父親は徐々にこちらへと歩いてきた。彼は恐らく僕の救世主だった。  父親の目頭は下がり、口端は上がった。片手で手招きをして、猫なで声で言う。 「こっちにおいで。怖くないよ」 そして父親の手が、僕に触れるか触れないか、その瞬間。 甲高い奇声。 鈍色に光るもの。 黒い影。 脇腹から赤く鮮やかな何かが流れてくるのは止められなかった。目の前の女と妹が激しく泣き、父親の怒声が響いた。 僕は襲ってくる悪寒と恐怖に抗うことが出来なかった。徐々にフェードアウトしていく目の前と共に、僕は悲しみに溺れた。 悪い夢だろう。 絵に描いたような家族がこんなに変貌するはずが無い。 何があろうと。 どんなことがあろうと。 悪い夢だ。 目が覚めたら、きっとまたいつもの日常に戻るだろう。 僕がせいなのか? ああ。僕のせいなのだろう。 「犬より息子」 と騒ぎ立てる母親。 「今は息子より犬」 と騒ぎ立てる父親。 僕はそんな喧騒を聞きながら、強い苦しみと呆れに包まれて、深い眠りについた。
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