4 君のせい

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4 君のせい

 僕には伯母がいる。名前はひな。僕を中学生まで育ててくれた人だ。  僕が生まれた理由と、ひなが僕を育てた理由は、そんなに大事なことじゃない。  僕がこれから生きていって、ひなが僕を育ててよかったと思うなら。 「一生会わないことだってできるんだよ」  僕の隣で電車に揺られながら、鷹生さんは心配そうに言った。 「僕はまだ子どもだから」  僕は近くに立つ若い女性の乗客にそわそわしながら答える。  ひぐらしの鳴く夏の終わりのことだった。  僕は鷹生さんに付き添ってもらって、前の担任の先生に会いに行く。  先生が僕に触れるのを拒んでから、一年が経とうとしていた。  背中を流れる汗の感触は、あまり心地よくない。でも夏が終わるまでは、みんなこれと付き合っている。  まぶしい太陽の中を歩いて、待ち合わせの喫茶店に入った。  先生は僕たちをみとめると立ち上がった。  まだ先生になって三年。でもそれだけじゃなく、先生は僕とそんなに年が変わらないくらい、幼く見える。 「郁の祖父です。今日は保護者として同席させてくださいね」  鷹生さんは先生に話しかけると、先生に座るように勧める。  僕が向かい側に座ると、先生と僕はココアを、鷹生さんはコーヒーを頼む。  飲み物の選び方とか、身に着けているクマのヘアピンだとか、先生は僕と似て子どもっぽい。  しばらく沈黙があった。僕は一年ぶりの先生が懐かしくて、つかのま何をしに来たのかも忘れていた。 「さよならを言いに来ました」  やがて僕はそう口にしたけど、自分で言っていて全然実感がなかった。 「僕を産んでくれた人と、東京で一緒に暮らすことになったんです。引っ越します」  話しながらじわっと実感がおいついてきた。  僕は桐人さんと暮らす。僕をいつも心配して体を壊すひなと、一度離れてみようと決めた。  戸惑いを顔に浮かべた先生に、僕は告げる。 「もう二度と先生と会うことはありません」  ひなは、先生は郁が好きだったんだよと言っていた。  それでも、ひなが傷ついたのはどうしても許せなかった。  先生が僕の体に触れようとしたことより、僕の心のまんなかを傷つけたのが嫌だった。 「僕は子どもだから、まだお母さんが一番大好きで、大事なんです」  きっと大人になったら、もっと賢い別れ方を知るのだろう。  今は、これがせいいっぱいだ。 「好きでした。さよなら」  僕の初恋は、そういう苦い終わり方だった。  帰り道、電車に揺られながら鷹生さんが教えてくれた。 「ひなが郁君の年だった頃を思い出したよ」  鷹生さんは苦笑して言う。 「ひなにはね、気になる男の子がいた。日曜日のバレンタイン、その男の子も弟の斗真も、みんなでチョコレートを食べに行く約束になってたんだ」  ふいにぽつりと言葉を切る。 「でも、その少し前にお母さんが亡くなってね」  ガタンゴトンと、電車は揺れる。 「私が朝起きたら、ひなはチョコレートケーキを作っていた。ひなは斗真だけ送り出して、家に残っていた」  そのときを思い出したように、鷹生さんは目を伏せる。 「「一緒に食べようよ」と、言うんだ。「私、まだ子どもだから。お父さんが一番好きでいい」と」  見たことがないはずの中学生のひなの表情が、想像できた。  きっと僕がよく知っているあの表情だ。今にも泣きそうな顔で笑っていたんだろう。 「よかった。君がひなの子どもで」  僕を見やる柔らかいまなざしは、血がつながっていなくても、確かにひなのお父さんのものだった。  夏休みの終わりがけ、僕と桐人さんとお父さんの三人で、キャンプに出かけた。 「気をつけろよ。小さくてもナイフなんだからな」 「大丈夫だよ」  僕が薪木をナイフで割っていると、お父さんから何度目かの注意が入る。 「ぷっ」 「笑うなよ、桐人。あんな危なっかしい手つき、見てられるか」 「うるせえな。手は出さないって約束は守ってる」  桐人さんは笑いを噛み殺しながら、カレーの具材を切っていた。  お父さんは桐人さんの手元をのぞきこんで、今度は桐人さんに注文をつける。 「ざっくり切りすぎだろ。これ煮えるのか?」 「お前はいちいちうるせぇ!」 「痛ぇ! ギブギブ!」  桐人さんはお父さんの首に後ろから手を回してぎりぎりと締める。  こうして二人が一緒にいるところを見ると、僕の同級生がじゃれてるようにしか見えない。  今でも実感がないけど、かつて桐人さんは女性で、お父さんとの間に僕を産んだ。  お父さんは長い間、桐人さんと顔を合わせるのも避けていた。桐人さんが僕の学校行事に必ず出席するから、自分は顔を出さなかったくらいだ。  でも僕が桐人さんと暮らすと話したら、お父さんは言った。「俺も腹を決めるか」と。  「桐人、郁と三人でキャンプに行こう」。お父さんがどんな気持ちで桐人さんに電話したか、僕はまだわかっていない。 「美味いな、これ。桐人、料理できるって本当だったのか」  出来上がったカレーを食べて、お父さんは驚いていた。 「そうだよ。桐人さんはお菓子からおせちまで何でも作れるんだから」 「いや待て。おせちはひなの手伝いしかしたことないぞ」  気が付いたら僕は得意げな調子で返していて、桐人さんに笑われた。  お父さんは神妙にうなずいて言う。 「よかった。桐人、郁の食事はちゃんと頼むぞ。ジャンクフードばかり食わせるなよ」 「わかってるよ」 「本当か? ちょくちょく様子見に行くからな」  僕は口をへの字にしてそれを聞いていた。  お父さんが心配性で、僕の生活のいろんなことを気にしていたのは知っていた。  でも一緒に暮らしていなかったから、ひなとは大きな線を引いていた。  今、ふっと思う。お父さんは、やっぱり僕のお父さんだ。  離れて暮らしていたとしても、お父さんは僕から目を離したりはしない。僕はずっと守られている。 「郁は団体競技が好きじゃないんだから、無理にチームに入れようとするんじゃないぞ。好きなようにさせてやれ」 「知ってるよ。俺だって見てきたんだから」  お父さんは桐人さんに僕のことを事細かに言伝ていた。桐人さんは苦笑しながら、でもずっとそれを聞いていた。  食事の後、シートを敷いて星を見上げた。  他に明かりもないから、満天の夜空が広がっていた。 「斗真、俺にも」 「ん」  お父さんが体を起こしてたばこを吸いだして、桐人さんも一本もらう。  二人は実はヘビースモーカーなんだけど、ひなの前では吸わない。なぜかはよく知らない。  でも二人が顔を近づけて火を受け渡ししていると、なんとなくわかる気がする。  じりじりとたばこの先で火がくすぶる。息が触れるような近くで、つと二人の目が合う。  そういうとき、僕はどきっとする。二人とも、別の人のように見えるから。  大人の世界という言葉が頭をよぎる。僕が知らない世界に、二人はいるんだなと思う。 「郁はまだ見るな」  ふいにお父さんが僕の頭をつかんで顔を横向けさせる。  僕は文句を言いたい気持ちもあったけど、大人しく横を向く。  それを元に戻したのは、桐人さんの手だった。 「いいだろ、別に。俺はもうお前とはキスしないぞ」 「き、桐人。そういう話はやめとけ」 「そういう話を、そろそろ郁も知っておくべきなんだよ」  僕とよく似た顔立ち、けれど僕よりずっと色っぽいと思う桐人さんが、僕に告げる。 「俺たちの性とひなの性のこと。郁もわかっておかないとな」  移ろう満天の星の下、掠めるたばこの匂い。  その中で、桐人さんは言葉を浮かべた。 「ひなは誤解してるな」 「ああ」  二人の話は、そんな風に始まった。 「郁。セックスって言葉を聞いてどう思う?」  僕はどきっとして、うつむきながら答える。 「……怖い。でも気持ちいいらしい」  僕の言葉を聞いて桐人さんはため息をついて、お父さんはうなずいた。 「怖いって部分は、ひなが植え付けたな」 「いいんじゃないか? 気持ちいい部分は伝わってるし」 「だ、だって」  僕はうろたえながら言う。 「子どもができちゃうんだよ」 「それの何が悪い」  お父さんはしれっと僕に言う。 「大変なことだって? まあな、すげえ大変。けど俺は夢が叶ったぞ。郁はキャッチボールは嫌がったが、一緒に星を見に行ってくれる」  僕は首をかしげて、助けを求めるように桐人さんを見る。 「郁、斗真の言葉をそのまま受けるなよ。こいつ、自分でも言うけどすごくチャラい男なんだ」  桐人さんは呆れたようにぼやいて、お父さんの頭を小突く。 「いて」 「俺はそんなに気持ちよくなかったぞ。あと、郁を育ててくれたのはひなだろうが。ひなの苦労は俺やお前の比じゃねぇ」  桐人さんは呆気に取られている僕を見て、ふいに笑う。 「変な感じか?」 「うん。ひなちゃんの話してたことと違う」 「そうだな。ひなは繊細だから」  桐人さんはぽつりと言う。 「でもそれは悪いことでも何でもなく、ひなの性格なんだ。俺は好きだよ」  見上げた僕に、桐人さんは心配をにじませた声で告げる。 「先生のことがあったから、郁もセックスを怖がらないかと心配になった。だから俺と暮らさないかって勧めたんだ」  お父さんもおどけながら、声は真剣に言う。 「その間、ひなはしばらく駄目な弟とでも暮らしてさ。ちょっと気楽に恋でもしてもらおうと思って」 「やめろ。ひなは他の男にはやらねぇ」  二人は目を合わせて苦笑する。  僕はちょっと黙ってから言う。 「ひなちゃんは自分のこと、好きじゃないね」 「俺や桐人を嫌う代わりにそうしてる節があるな。ひなは恋もセックスも、自分の性も、怖いんだろうな」  ふいに桐人さんはたばこの火を消す。  暗がりの中で、桐人さんは僕たちに話しかける。 「俺は男になったが、今でもひなの親友なんだ」  お父さん、僕を順に見て、桐人さんは言う。 「斗真も男だが、弟だし。郁はもうすぐ大人になるが、ひなの子どもだ」  お父さんもたばこの火を消す。 「……ただそれだけなんだとひなが気づくまで、俺は一歩離れて待ってるよ」  そうだなとお父さんが言った。  僕も鼻先に残るたばこの香りを感じながら、目を閉じた。  夏休みの最終日の朝のことだった。  お父さんとひなの新居で、僕は朝ごはんを食べた。 「郁、バターは?」 「このままでいい」  ひなが作った丸パンを、何もつけずに食べる。次いつこの味が食べられるかはまだわからない。 「めんたいマヨネーズとかあるよ」 「朝からマヨネーズなんて」 「ひな」  ひなが差し出した調味料を断った僕を見て、お父さんが口を挟む。 「郁の好きなようにさせなよ」  黙ってしまったひなを見て、マヨネーズを使えばよかったと後悔した。  向かい側のひなを、盗み見るようにしてうかがった。  ひなは僕と目が合うと、にこっと笑う。でもその目がとても寂しそうだった。  後悔なら、何度もした。僕がずっとひなの側にいたなら、きっとひなは喜ぶ。  でもそのたびに思う。僕たちはそろそろ、ゼロ距離の母子から前に進んでもいいんじゃないかな。  僕が女性に慣れて、ひなが男の人に慣れて、二人とも自分の性が怖くなくなったとき。  僕はずっとひなの子どもで、ひなは僕のお母さんだけど、僕らがそれぞれ一つの性を持つ人間になったとき。  きっとそのとき、僕たちはもっと幸せになれる気がする。  食事が終わって、荷造りの確認をしていたら、インターホンが鳴った。 「準備はできたか」  玄関から桐人さんが現れる。僕はうなずいて立ち上がった。 「体に気をつけてね。いつでも帰って来ていいからね」 「うん」  ひなは何度となく繰り返した言葉を告げて、僕にキャリーバッグを渡す。  僕がキャリーバッグの取っ手をつかもうとしたとき、ひなの手と触れた。  ひなは反射的に僕の手をつかもうとして、震えた。  それからその手で顔を覆って泣きだした。  声もなく、顔も見せることも拒んだ。  ひながそういう風に悲しみをこらえてきたのを、僕は今まで知らないで生きてきた。 「ひなちゃん。不安になったら、僕を見て」  手を伸ばして、顔を覆ったひなの手をそっと包む。  子どものようににじんだ目、赤くなった鼻。少しだけ見えた、ひなの「お母さん」以外の顔。 「僕は元気でいるよ。笑ってるよ。幸せだよ」  君のおかげでそういう風に生きてきたよと、いつか伝えたい。  もう僕より小さくなった体を抱きしめて、僕は言う。 「見ていて。いつも」 ――君のせいで僕は生まれて、君のおかげで生まれてきてよかったと思う。
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