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リビングから物音は止まず、低い笑い声のようなものが聞こえてきた。
曇りガラスの向こうに、首吊り死体の影がぼんやりと浮かび上がる。
伊織は逃げ込むようにキッチンに入り、ダイニングからリビングへと続くドアに施錠をした。
ドン、ドン、という音はいつもと様子が違っていた。妙に激しく、荒っぽい。また「あの時」のように自分を襲ってきたらと思うと、伊織はダイニングテーブルの下で震えながら時間が過ぎるのを祈った。
やがて、どれほど経っただろう。
音がしなくなってからも、伊織は随分長い間そこで震えていたが、やがて音も立てずにそこから這い出した。
そしてそっと廊下に顔を出して、青ざめた顔でリビングへと続くドアの方を見て、目に飛び込んできた物に、喉の奥から「う……」といううめき声が漏れ、思わず口に手を当てた。
リビングに続くドアは開け放たれていた。だが、首吊死体はもう消えている。
その足元に、血溜まりが広がっていた。
あの首吊り死体がぶら下がっていた足元に、真っ赤な血溜まりがある。
だが、少ししてそれは、自分が供えたラズベリーケーキだと気づいた。
ローテーブルから落とされたそれは執拗にぐちゃぐちゃにされ、飛び散った臓物のように見えた。その中心に突き立てられたフォークから、何か強い殺意のようなものを感じ取った。
「なん、で」
思わず声を震わせた。
「ら、ラズベリー嫌いだったのか? ごめんごめん。美味しいって評判だったからさ……好きかと思って」
そう言って引き攣った笑いを浮かべながら、飛び散った臓物のようなケーキの残骸を、震える手で片付けようとした時、けたたましい音を立てて電話が鳴った。
携帯ではなく、この家の電話だ。
今時固定電話など不要だろうとも思うが、企画書などファックスで送ることもあるということで、番組側が負担してくれたので一応加入していた。この電話には、何度も無言電話がかかってきている。
電話はいつまででも鳴りやまず、そっとそれを手にした。
耳障りなノイズのような音に混じり、奇妙な声がした。
「オマエモ、モウスグオナジニシテヤルカラナ」
それだけ言って電話は切られた。
(お前も、もうすぐ同じ?)
伊織は足元でぐちゃぐちゃになっているラズベリーケーキを見て、「ひっ」と声にならない悲鳴を上げた。
今すぐにでも、企画をリタイアして、荷物をまとめてこの部屋から引っ越してしまいたいと思った。
──リタイアしてもいいよ。他にも仕事あるんだし、もういいでしょ
三浦の言葉を思い出した。
そんなことない。
こんな風に一時的に持ち上げられても、みんなまたすぐに、伊織を忘れる。
バズッたことで、多くの視聴者が今、この番組に伊織に注目している。みんな画面の向こう側で期待しているのだ。ここで暮らす伊織が、恐ろしい目に遭う事を。せっかく盛り上がったところでリタイアなんてしたら、白けてしまう。
そうしたらまた、世間から忘れられてしまう。
だから。でも。
(この部屋……本当に住んでて大丈夫なのか?)
これまでずっと、薄々感じていた薄気味悪さが、ぞわぞわとこみ上げてきて、伊織はしゃがみ込んだまま呆然と、潰れたラズベリーケーキを見つめていた。
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