2.事故物件・前編

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リビングから物音は止まず、低い笑い声のようなものが聞こえてきた。 曇りガラスの向こうに、首吊り死体の影がぼんやりと浮かび上がる。 伊織は逃げ込むようにキッチンに入り、ダイニングからリビングへと続くドアに施錠をした。 ドン、ドン、という音はいつもと様子が違っていた。妙に激しく、荒っぽい。また「あの時」のように自分を襲ってきたらと思うと、伊織はダイニングテーブルの下で震えながら時間が過ぎるのを祈った。 やがて、どれほど経っただろう。 音がしなくなってからも、伊織は随分長い間そこで震えていたが、やがて音も立てずにそこから這い出した。 そしてそっと廊下に顔を出して、青ざめた顔でリビングへと続くドアの方を見て、目に飛び込んできた物に、喉の奥から「う……」といううめき声が漏れ、思わず口に手を当てた。 リビングに続くドアは開け放たれていた。だが、首吊死体はもう消えている。 その足元に、血溜まりが広がっていた。 あの首吊り死体がぶら下がっていた足元に、真っ赤な血溜まりがある。 だが、少ししてそれは、自分が供えたラズベリーケーキだと気づいた。 ローテーブルから落とされたそれは執拗にぐちゃぐちゃにされ、飛び散った臓物のように見えた。その中心に突き立てられたフォークから、何か強い殺意のようなものを感じ取った。 「なん、で」 思わず声を震わせた。 「ら、ラズベリー嫌いだったのか? ごめんごめん。美味しいって評判だったからさ……好きかと思って」 そう言って引き攣った笑いを浮かべながら、飛び散った臓物のようなケーキの残骸を、震える手で片付けようとした時、けたたましい音を立てて電話が鳴った。 携帯ではなく、この家の電話だ。 今時固定電話など不要だろうとも思うが、企画書などファックスで送ることもあるということで、番組側が負担してくれたので一応加入していた。この電話には、何度も無言電話がかかってきている。 電話はいつまででも鳴りやまず、そっとそれを手にした。 耳障りなノイズのような音に混じり、奇妙な声がした。 「オマエモ、モウスグオナジニシテヤルカラナ」 それだけ言って電話は切られた。 (お前も、もうすぐ同じ?) 伊織は足元でぐちゃぐちゃになっているラズベリーケーキを見て、「ひっ」と声にならない悲鳴を上げた。 今すぐにでも、企画をリタイアして、荷物をまとめてこの部屋から引っ越してしまいたいと思った。 ──リタイアしてもいいよ。他にも仕事あるんだし、もういいでしょ 三浦の言葉を思い出した。 そんなことない。 こんな風に一時的に持ち上げられても、みんなまたすぐに、伊織を忘れる。 バズッたことで、多くの視聴者が今、この番組に伊織に注目している。みんな画面の向こう側で期待しているのだ。ここで暮らす伊織が、恐ろしい目に遭う事を。せっかく盛り上がったところでリタイアなんてしたら、白けてしまう。 そうしたらまた、世間から忘れられてしまう。 だから。でも。 (この部屋……本当に住んでて大丈夫なのか?) これまでずっと、薄々感じていた薄気味悪さが、ぞわぞわとこみ上げてきて、伊織はしゃがみ込んだまま呆然と、潰れたラズベリーケーキを見つめていた。
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