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「声変わりして、背が伸びた頃は、ファンからも色々言われたけど……マサくんからは特に何も言われたことはなかった。すごく大人しい人だったし。内心、どう思ってたか分からないけど」
「……あなたを襲う理由が、憎しみでないのだとしたら、呼んでいるのかもしれません」
「呼んで?」
「俺にストーカーの霊が憑いてるって言ったでしょう? もう何年も、ずっと呼ばれてますよ。一緒に死のうって毎日言われてます。霊ってみんな孤独なんですよ。だから本能的に、誰かを引きずり込もうとする」
今も背後から、ねっとりと絡みつくような女の視線と、ノイズのような呪詛の声が聞こえてくる。伊織は何か感じ取ったのか、ぶるりと肩を震わせた。
「その……お前大丈夫なのか。そういうの視て。おかしくなったりしないのか」
「もう慣れましたんで」
昔は、危ない時期もあった。呼び声に負けて死のうと思ったことも何度もある。踏みとどまれたのはあなたのおかげだとは、さすがに言えなかった。
「呼ばれてるのだとしたら、危険です。一刻も早く引っ越した方がいい」
「危険って……でも、実際に殺されたりはしないだろ? 霊なんだから……」
「もちろん。彼らには実体がありませんから、実際にあなたを刺したり、首を絞めたりと言ったことは出来ません。ただ、心が……引っ張られることがあります」
霊に魅入られて誘われ、自分からその一線を越えようとするのを何度か止めたことがある。そして、一度だけ止められなかったこともあった。
一見、それは自殺だ。
あんな元気だった人がなぜ自殺なんて。きっと誰にも言えない悩みがあったのだろう。周りは皆、無理やりにでもそう考えて納得するかもしれないが、ああいうのを「取り殺される」というのだろうと思った。
伊織は青ざめた顔で、長いこと黙って俯いていた。その様子は、何か心辺りがあるようで、狗飼は心配になった。
「もしかして、何かありましたか?」
「……ケーキが……」
「ケーキ?」
伊織はそれだけ言って青ざめたまま黙り込んだ後に、笑って言った。
「……いや、コーヒー飲んでたら、ケーキ食いたくなってきたなって」
冗談めかして笑った彼の天使のような笑顔は、凍り付き、青ざめていた。明らかに何か隠している。
「……また何か襲われるようなことがあったなら、本気で企画を中止してもらった方がいい。強要されるようなら告発してください。今の時代SNSとかあるし、途中でリタイアしたらアイドルやめろなんてパワハラですから、世論は味方しますし、それはそれでバズりますよ。俺やりましょうか? 大学の友人に、インフルエンサーみたいな奴がいるんで、拡散してくれま……」
「いい! 余計なことするな! これは大事な仕事なんだ!」
すごい剣幕でそう叫んだあと、彼はハッとして、バツの悪い顔をした。
「マジ、あれ以来、たまにちょっと音がするぐらいでなんにもねーから。マサくん、俺の大事な仕事の相棒だから勝手に取り上げんなよな」
そう言うと伊織は、「帰る。コーヒーご馳走様」と言って、逃げるように立ち去ろうとしたので、反射的にその細い手首を掴んだ。
「な、なんだよ」
「ケーキ買って来ます。夕飯の礼に」
そう言ってあの部屋に帰るのを引き止めると、伊織は今にも泣き出しそうなほど安堵した表情で笑った。
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