2.事故物件・前編

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「声変わりして、背が伸びた頃は、ファンからも色々言われたけど……マサくんからは特に何も言われたことはなかった。すごく大人しい人だったし。内心、どう思ってたか分からないけど」 「……あなたを襲う理由が、憎しみでないのだとしたら、呼んでいるのかもしれません」 「呼んで?」 「俺にストーカーの霊が憑いてるって言ったでしょう? もう何年も、ずっと呼ばれてますよ。一緒に死のうって毎日言われてます。霊ってみんな孤独なんですよ。だから本能的に、誰かを引きずり込もうとする」 今も背後から、ねっとりと絡みつくような女の視線と、ノイズのような呪詛の声が聞こえてくる。伊織は何か感じ取ったのか、ぶるりと肩を震わせた。 「その……お前大丈夫なのか。そういうの視て。おかしくなったりしないのか」 「もう慣れましたんで」 昔は、危ない時期もあった。呼び声に負けて死のうと思ったことも何度もある。踏みとどまれたのはあなたのおかげだとは、さすがに言えなかった。 「呼ばれてるのだとしたら、危険です。一刻も早く引っ越した方がいい」 「危険って……でも、実際に殺されたりはしないだろ? 霊なんだから……」 「もちろん。彼らには実体がありませんから、実際にあなたを刺したり、首を絞めたりと言ったことは出来ません。ただ、心が……引っ張られることがあります」 霊に魅入られて誘われ、自分からその一線を越えようとするのを何度か止めたことがある。そして、一度だけ止められなかったこともあった。 一見、それは自殺だ。 あんな元気だった人がなぜ自殺なんて。きっと誰にも言えない悩みがあったのだろう。周りは皆、無理やりにでもそう考えて納得するかもしれないが、ああいうのを「取り殺される」というのだろうと思った。 伊織は青ざめた顔で、長いこと黙って俯いていた。その様子は、何か心辺りがあるようで、狗飼は心配になった。 「もしかして、何かありましたか?」 「……ケーキが……」 「ケーキ?」 伊織はそれだけ言って青ざめたまま黙り込んだ後に、笑って言った。 「……いや、コーヒー飲んでたら、ケーキ食いたくなってきたなって」 冗談めかして笑った彼の天使のような笑顔は、凍り付き、青ざめていた。明らかに何か隠している。 「……また何か襲われるようなことがあったなら、本気で企画を中止してもらった方がいい。強要されるようなら告発してください。今の時代SNSとかあるし、途中でリタイアしたらアイドルやめろなんてパワハラですから、世論は味方しますし、それはそれでバズりますよ。俺やりましょうか? 大学の友人に、インフルエンサーみたいな奴がいるんで、拡散してくれま……」 「いい! 余計なことするな! これは大事な仕事なんだ!」 すごい剣幕でそう叫んだあと、彼はハッとして、バツの悪い顔をした。 「マジ、あれ以来、たまにちょっと音がするぐらいでなんにもねーから。マサくん、俺の大事な仕事の相棒だから勝手に取り上げんなよな」 そう言うと伊織は、「帰る。コーヒーご馳走様」と言って、逃げるように立ち去ろうとしたので、反射的にその細い手首を掴んだ。 「な、なんだよ」 「ケーキ買って来ます。夕飯の礼に」 そう言ってあの部屋に帰るのを引き止めると、伊織は今にも泣き出しそうなほど安堵した表情で笑った。
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