2.事故物件・前編

29/34

624人が本棚に入れています
本棚に追加
/95ページ
その晩、家に帰ってくると伊織はいつものようにそっと鍵を回し、恐る恐る部屋の中に入った。 (やっぱ、部屋が安心できる場所じゃないってきついな……いくら幽霊って言ったってなぁ) 狗飼が、幽霊は精神的に蝕まれることはあっても、物理的に殺されるようなことはないと言っていたので、とにかく気をしっかり持つしかなかった。 出来れば毎日隣の部屋に駆け込みたいところだが、狗飼はどこか伊織と距離を置きたがっている。幼い頃からこの業界にいたから、そういう〝空気〟には人一倍敏感だった。 (別にあいつにどう思われようといいんだけど) 毎日押しかけて、迷惑な隣人だと思われてもどうでもいい。狗飼には本性もバレてしまっている。伊織の本性を知る人間は限られている。マネージャーの三浦と、衛士と、そして狗飼だけだ。 取り繕わずありのままでいられるのはとても気が休まる。 (あいつちょっと、衛士に似てるんだよなー。一緒にいて気楽なとことか、塩対応だけど意外と面倒見良いとことか……まああいつの場合は俺が面倒見てやってんだけど) そう思ってはいるものの、本気で嫌がられたら立ち直れないような気がした。伊織の胸にはいつまでも、幼い頃に冷たいベランダの窓から両親が談笑する食卓を覗き込んでいた時の記憶が焼き付いている。 自分が嫌っている相手から嫌われることなど、痛くもかゆくもないが、自分が好ましいと思っている相手から拒絶されることを極度に恐れていた。 だから狗飼の部屋に行くのは、どうしてもこの部屋にいるのが我慢できない時だけと決めていた。 この部屋にいるのは怖いが、あまり悠長なことは言っていられない。 明日のドラマクランクインに向けて長台詞を叩きこまなければならない。脚本に修正が入ったらしく、かなりギリギリに台本を渡されており、まだ覚えきれていないところがあった。 「頑張るぞ。ここが頑張りどころだからな」 もう一度、あの頃に、あの輝いていた頃に戻れるように。 そう意気込んで、壁に貼った昔の自分のポスターを見上げて、それに気づき、伊織は手にしていた台本をどさりと落とした。 一番輝いていた頃のポスターを伊織は今でも大事に寝室に張っていた。 あの時を忘れないように、またこの時のように輝けるように。そういう願いを込めて貼っていた。そのポスターに映る自分の顔の部分が、炙られ、黒く焼かれていたのだ。
/95ページ

最初のコメントを投稿しよう!

624人が本棚に入れています
本棚に追加