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ポスターの側には、水を張ったガラスの花瓶が置いてある。
太陽の光を通して、焼けてしまったのか。いや、カーテンはきちんと閉めていたし、今までこんなことは一度もなかった。
狗飼が言っていた、死んだ若宮正弘についての言葉を思い出す。
──その……アイドルの写真をスクラップブックにしてたんですけど、なぜか一部ライターで炙ってあったらしくて……
伊織は恐怖とショックにしばらく呆然としていたが、やがて強い怒りに駆られて寝室を飛び出し、リビングのドアの前に立った。
「なんでこんなことするんだよ! マサくん、俺のファンだったんだろ!?」
ファンだったならどうしてこんなことをするのか。理由は一つだ。
ファンだった人が強烈なアンチに変わることは多々ある。
アイドルは偶像だ。
その偶像が、スキャンダルにしろ、成長による劣化にしろ、なんらかのきっかけによって壊れてしまったとき、それまで注いだ愛情が、まるでオセロのように憎しみにひっくり返る。
『三笠伊織早く消えろ。これ以上劣化を見せるな』
エゴサーチをしているときによく見かける言葉を、思い出す。
「……俺が成長したのがそんなに許せないのか」
誰にともなく、怒りと悲しみで震える声で、そう呟いた。
そのとき、突如電話が鳴った。スマホではなく、家の電話だ。
おかしなことに、発信番号は、この部屋だ。この部屋から、この部屋の電話にかかってきている。
指先が震えるが、それでもその時は恐怖よりも怒りが買って、子機を乱暴に手に取った。いつものように、ザーザー……というノイズだけが響いている。
「なんだよ! 幽霊のくせにこんな回りくどいことして俺に嫌がらせしやがって! 悪いけど、俺は消えない。俺はまだ、劣化なんてしてないからな!」
そう怒鳴りつけたとき、受話器越しに笑い声がした。低くて不気味な、ゾッとする笑い声だった。思わず電話を切ろうとしたとき、微かな声が、耳元で囁くように聞こえた。
『ノコギリと包丁、どっちがいい?』
それだけ言われて、電話が消えた。何の話かわからない。全く分からないのに、全身の血の気が引くような恐怖を覚え、伊織は足から崩れ落ちた。
「い、狗飼! 狗飼、たすけて……っ」
慌てて部屋を飛び出し、マンションの廊下に出て、隣の部屋のドアをめちゃくちゃに叩き、インターフォンを鳴らした。
留守なのだろうか。
(早く帰ってこいよあの馬鹿……っ)
ドアの前でしゃがみ込み、震える膝を抱えていると、ポケットに突っ込んだままのスマホが振動し、伊織は体を震わせた。
また「自宅」からの電話だったらと思うととても出る気にならなかったが、それでも仕事の電話の可能性もあると恐る恐るスマホを取り、そこに表示された意外な名前に瞳を揺らした。
「母さん……」
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