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一体、何年振りだろう。
極度の緊張の糸が解けたのと、もうずっと、売れなくなった自分は捨てられたのだとばかりに思っていたから、信じられない思いで瞼が熱くなった。
「もしもし、母さん!?」
「伊織? あたし。久しぶりね」
「母さん! どこ行ったんだよ。急にいなくなっちゃって……いくら電話かけても出ないで。新しい住所ぐらい教えてくれればいいのに。事件に、巻き込まれたんじゃないかって……ずっと、心配、して、たのに……っ」
「やだ、あんたまさか泣いてるの?」
ずっと鼻をすすり、目元に溜まった涙を指先で拭いながら、伊織は「風邪気味なだけ」と答えた。
「そう。ならいいわ」
「母さんは元気?」
「ええ、元気よ」
良かった、と伊織は嘆息のような声を出した。
捨てられたのだと思う一方で、病気だったら、
「ねえ、それよりテレビ見たわよ。こないだのゴールデンのバラエティ。びっくりしちゃった」
伊織は、尚も静かに溢れる涙を手の甲で拭いながら何度も頷いた。
「うん……、うん、出たよ。ゴールデン。今度、連ドラにも重要な役で出させてもらう。明日から撮影……セリフたくさんあるから、覚えるの、たいへん」
「そう。じゃあ電話も手短に終わらせた方がいいわね」
「あ、全然、大丈夫。大丈夫だから、まだ…て」
まだ切らないでと、言うより先に母が遮った。
「いいの。あたしも忙しいから。今ちょっと生活苦しいのよ。それでね。口座番号教えるから、振り込んでおいてくれない?」
「え……」
ああ、そうか。
ストン、と認めたくない考えが胸に滑り落ちてきた。
母はきっと、長いこと伊織の存在を忘れていたのだ。世間が、伊織の存在を忘れていたのと同じように。
そして、テレビで目にしてようやく自分の子供の存在を思い出し、金の無心の候補先として電話をしてきた。
それだけのことだ。
それだけのことなのに胸がズキズキと痛く、呼吸が苦しくなるのを歯を食いしばって耐え、まるでドラマで演技をするような声音で言った。
「……うん、分かった。任せて。振り込んでおくよ」
「ありがとう。助かるわ。じゃあ……」
「待って。今、誰と暮らしてるの? あっくんと? 殴られてない? 大丈夫なの?」
あっくんは、母の彼氏で伊織が物心ついたときから家にいた。籍入れておらず、そのことでよく揉めていた。
酒癖が悪く怒りっぽく、子供の頃、伊織はよく殴られていたが、芸能界に入ってからはよほど泥酔している時出ない限り、殴られることは無くなった。
「……あーいたわね。そんな最低男。とっくに別れたわよ」
「じゃあ今一人? 今度、休みのとき遊びに行っていい?」
「………」
その沈黙に、伊織は膝上で手を握り締めた。
「今、別の人と結婚してるの。子供も生まれた。やっとちゃんと家庭ができたの。だから……家に来られるのは困るわ」
「……そっか。うん、分かった。口座番号、あとでLIMEしといて。俺も、最近また仕事貰えるようになったばかりであんまり余裕がないけど、これからもっと入るはずだから……だから、また電話ぐらいしてくれよ。心配だから」
それに対する返答はなく、通話がすでに切れていることを告げる無機質な電子音が響いた。
程なくして、母から口座番号だけが書かれたLIMEが届いた。アイコンは遊園地で微笑む母と、結婚相手と思われる男と、幼い子供だった。
(遊園地かあ……仕事でしか行ったことなかったな)
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