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幼い子供を抱きしめる母の手つきは優しい。ちゃんとした家庭が出来た。母は嬉しそうにそう言っていた。
どこの誰との相手に生まれたか分からない伊織は、ちゃんとした子供ではかったのだろうか。
(でも俺にも、優しかったよな……)
物心ついてからの記憶の中で、大部分、母は優しかった。芸能活動が忙しかった時、母は献身的に自分を支えてくれていたし、あっくんの暴力からも守ってくれた。
でもきっと、母が愛していたのは〝いおりん〟と呼ばれて日本中から愛されていた虚像の自分だった。あるいは、その虚像が稼いでくる金か。
伊織自身のことは、長いこと存在すら忘れていて、テレビに出るまで思い出しても貰えなかった。
胸が潰れてしまいそうな寂しさに耐え切れず、伊織はスマホを取り出した。
三笠伊織、と検索をすると、自分の出演したテレビ番組を見た視聴者の感想がいくつも引っ掛かる。伊織はそれを見ていつになく安堵した。
自分はちゃんと存在しているのだと、認識することが出来た。
何かに取り憑かれたようにエゴサーチをして、無心でスクロールをしていると、不意にアンチコメントが目に留まった。
『最近また見かけるようになったけど、もう全然可愛くなくて痛々しい。あんな醜態晒すぐらいなら、さっさと死ね』
死ね。
その言葉に、魂を吸い取られるような気がした。
生きている限り、人は成長し、劣化していく。劣化するたびに〝いおりん〟の虚像は剥がれ落ちていき、三笠伊織という、ただの孤独な成人の姿が明確になっていく。
その時、不意にエントランスホールの方でエレベータが開く音がした。きっと狗飼が帰ってきたに違いない。
(帰ってくるのおせーんだよ!)
彼にとっては全く理不尽なことだろうと思うが、今はどうしてもそんな八つ当たりをせずにはいられなかった。
だが、狗飼一人が帰って来たにしては随分足音が賑やかだ。もしかすると、別の部屋のファミリー層だろうか。だとしたら、こんなひどい顔を見られるのは憚られて、部屋に引っ込むべきか迷ったが、それよりも早く、彼らはこちらにやってきてしまった。
狗飼は、同い年ぐらいの男女数人と歩いていた。おそらく友人達だろう。皆、腕には「秀成高校同窓会」と書かれた揃いの紙袋を下げている。
「なんで俺ん家が三次会会場なんだよ。ふざけんな」
狗飼はこちらにまだ気づいていないようだ。
いつも伊織に対するやけに丁寧な態度とは打って変わって、ごく普通の学生らしい口調で友人達に小声で抗議していた。
「一番広い良い部屋で一人暮らししてるからー」
「早馬の部屋なら絶対幽霊出るから盛り上がりそうじゃん。修学旅行の時もさー俺幽霊とか初めて見たし」
学生たちは皆すでにどこかで飲んできたらしく、わいわいと楽し気だった。
一部は当酔っぱらっているようで、一人の女子は足元もおぼつかないようで、狗飼がひどく嫌そうな顔をして肩を貸してやっていた。
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